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4
展望台を降りる頃には、麻耶も礼実も普段通りに戻っていた。麻耶は下らない話を一方的に展開し、礼実はそれを適当に受け流す。真っ暗な夜道だというのに、あまりに賑やかで怖さなど全く感じなかった。まぁ、実質一人で歩いているのだから、もう少し警戒した方が良かったのかもしれないが。
何はともあれ、宿泊出来るホテルも見つかったので礼実は良しとすることにした。
「お一人様ですね」
「え?あ、はい」
思わず、違うと言いそうになった。相手が幽霊であることは十分分かっている筈なのに、一日中ずっと一緒にいるせいで感覚が麻痺してきたようだ。
「ここにお名前をご記入して下さい」
この従業員はこんな時間に一人で来た客のことをどう思っているのだろうか。そんなことを考えながら、渡されたボールペンを握る。
「左利きなんだね~」
余程暇なのだろう。お喋り好きの幽霊が後ろから覗き込んでくる。
「字、結構汚いんだね~」
「煩いなぁ」
……あ、と思った時にはもう手遅れだ。目の前にいる従業員は礼実の突然の奇妙な一人言に目を白黒させている。
「お客様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、何も!」
最悪だ。やらかした。確実に変な奴だと思われた。
礼実は隣にいるであろう麻耶を戒めの意味を込めてキッと睨み付けた。が、そこに麻耶はおらず、振り返ってみると後ろのソファに素知らぬフリをして座っていた。口笛まで吹いている。
「……お客様?」
「あ、はい!?」
従業員の声がして急いで向き直る。
「こ、こちらお部屋の鍵です」
「ど、どどどうも……」
あー、最悪だ。最悪に最悪を塗り重ねている。もう今すぐ逃げたい。穴があったら入りたい。
礼実はもう一度、振り返ってみた。そこには、まるで開き直ったように手を振る悪霊もどきの姿があった。
「わあ!結構広い部屋だね!」
麻耶がまたはしゃいでぐるぐる飛び回る。死人に向かってこんなことを思うとバチが当たりそうだが、良いご身分だなと思わずにはいられない。礼実は背負っていたリュックを床に置くと、備え付けのベッドの上に崩れ落ちるように腰掛けた。
「ねぇ、何で無視するの?」
「え?この期に及んで分からないの?」
能天気な麻耶をギギギ、と睨み付ける。
「え~……でもアレは私も悪気はなかったし、てかそっちが勝手にやらかしただけで……」
言い訳をするどころか悪いのはそちらだと主張し始めたので、目をこれでもかと大きく開いて目力でその根性を捩じ伏せる。
「そんなに怒ることかなぁ」
見るからに困惑している。礼実はそのままフイとふてぶてしく顔を背けてみた。
「あーもう!悪かったって!ていうかそんなに思い詰めなくても大丈夫だよ!あの従業員さんももう礼実のことなんか忘れてるよ!」
もう一度、麻耶の方へ顔を向けてみる。
「……ほんと?」
「ほんとだよ!」
そう聞いて、礼実はムフフと笑った。実は最初から本気で怒っていた訳ではない。恥ずかしい思いをさせられたので、少しからかってみたくなっただけだ。
「じゃあいいや」
「許してくれるの?」
「まぁね」
先程とは打って変わって上機嫌となった礼実は、床に置いたリュックをゴソゴソ漁り始めた。
「何してんの?」
「ご飯、食べようと思って」
コンビニで買ったおにぎりを取り出す。こうもおにぎりばかりだと飽きてしまうが、仕方のないことだ。このくらい我慢する。
「またおにぎり?」
「悪い?」
「そうじゃないけど……外に美味しそうなお店あったよ」
「いいでしょ別に。アンタが食べる訳じゃないんだから」
フィルムを剥がし、本日二つ目の鮭おにぎりを頬張る。荷物のせいで形は崩れ、ご飯も固くなっているが味はそこそこだ。これを食べたら次は本日三つ目のツナおにぎりである。
「私、これ食べ終わったらすぐにお風呂入って寝るから。昨日も碌に寝てないし、今日は散々歩き回ったし、とにかく疲れてるの。絶対に起こさないでね」
スマートフォンを弄りながらそう言いつける。が、何も返事がない。
「……聞いてる?」
あまりに無反応なので、礼実は麻耶のいる方向へと目を向けた。
彼女は見たこともない表情で俯いていた。事件のことを話した時の悲しげな表情とも違う、どこか思い詰めたような表情に見えた。
「麻耶?」
「えっ?あ、何?」
名前を呼ばれてやっと反応した麻耶の表情はいつも通りのものに戻っていた。
しかし、どこか違和感を覚える。
「アンタ何か……どうしたの?」
「どうしたって、何が?」
麻耶はキョトンとした顔で首を傾げる。しらばっくれているのだろうか。
「いや、様子変じゃん。何かあったの?」
「え、そうかな?何もないよ」
「……それ本気で言ってるの?」
「本当だよ!何で私が嘘つくの!」
麻耶が困ったように眉を下げる。うーん、これは微妙だ。さっきのただならぬ様子は気になるけど、嘘をついているようにも見えない。というかこのまま追及しても話してくれなさそうだし、その間にも時間は過ぎるし、睡眠時間も減ってしまうし。
「ふーん、まぁいいや」
考えた結果、礼実はそう答えを出した。
「ごちそうさま。じゃ、お風呂入って来るね」
食べ終わったおにぎりのフィルムをゴミ箱に入れると、礼実は早々と風呂場へ向かった。
その背中を、麻耶はじっと見つめていた。
風呂から出ると、どっと眠気が押し寄せる。時計を確認すると、もうとっくに深夜十二時を過ぎていた。
「うわ、もうこんな時間」
いつもならもう少し夜更かししたりもするが、今日は違う。髪も乾かしたし、歯も研いたし、もう寝よう。荷物の整理もしたかったけど、それは明日にでも出来る。
礼実は早速布団に入ろうとして……立ち止まった。
「何してんの?」
そこには先客がいたからだ。
「アンタ幽霊なんだから寝なくていいでしょ」
「いいじゃん、別に。幽霊だから邪魔じゃないでしょ?」
「えー……」
確かに、普通の人にとっては邪魔ではない。しかし、礼実のように視える人にとっては違うだろう。
「まぁ、いいけど」
「やったあ」
「その代わり、静かにしてね」
でもまぁ、我慢出来ない程でもない。というか今そんなことで揉める暇があるなら、寝る方がいい。そのくらい眠かったのだ。
礼実は布団に潜ると、後ろにいる麻耶に背を向けて寝転んだ。
「じゃ、おやすみ」
やっぱり布団は気持ちいい。目を閉じるとすぐにでも眠ってしまいそうだ。
疲れからか、いつもより早く眠れそうだった。多分、この静寂があと少し続けば礼実は完全に眠りに落ちていただろう。
しかし。
「ねぇ、まだ起きてる?」
礼実は思わず顔をしかめた。こうなる気はしていたので驚きはしないが、約束は守って欲しい。
「ね、起きてるよね?」
「……」
寝たフリで誤魔化す。明日の朝も早い。頼むから静かにして欲しい。
「まぁいいや。じゃあ勝手に話すね」
思わず耳を疑ってしまう。あの時展望台であんなに話したのに、まだ話し足りないことがあるのだろうか。
少し気にはなる。でも途中で寝てしまうかもしれない。そう思いつつ、礼実はひっそりと耳を傾けた。
「ちょっと話したと思うけど、私の家、自分で言うのもなんだけど昔は本当にお金持ちでさ」
それは彼女が幸せだった頃の話だった。
「大きくて綺麗な家で、綺麗な服を着て、それこそお嬢様みたいに大切に育てられた。習い事もたくさんやらせて貰ったな。小さい頃から勉強ばっかりさせられて凄く嫌だったけど、今思えば幸せなことだよね」
━━━━習い事、かぁ。
少し共感してしまった。かつての礼実もまた、親に敷かれたレールを走っていたから。
「お父さんもお母さんも、私の将来のことを想ってくれてたんだよね。だから小中校一貫の私立の名門に入学出来て、二人とも喜んでくれた」
なるほど、道理で頭がいい訳だ。教室で先生に褒められる麻耶の姿が脳裏に浮かぶ。
「だけど中学の時、お父さんの事業が失敗して、いっぱい借金抱えちゃって。お母さんは愛想尽かして新しい恋人と出て行っちゃうし、当然あの素敵な家にも住めなくなるし」
お母さん、私が死んでどう思ったのかな。麻耶がボソッと呟いた。
「それで……それで、学校も転校しなくちゃで、もう大変だったなぁ」
麻耶の声は震えていた。きっと泣いているのだろう。
礼実はその話を黙って聞いていた。声なんてかける気は端からないけど、かけようと思ったところでやっぱり言葉なんか出ないだろう。だから黙って聞いている。多分、それでいい。
礼実は気付いていなかった。麻耶の狙いはただ"話を聞いて貰う"ことではなかったことに。
「そういえば、礼実も転校してきたんだよね」
突然、話の方向がこちらへ向いたのだ。
「高一の……確か二学期に入ってすぐの時かな?クラスは別だったけど覚えてるよ」
一気に目が覚める。ただ自分の話を聞いて欲しいんじゃなかったのか?礼実は思わず反応してしまう。
「それが何……?」
もういい加減にして欲しい。そもそも寝るから声をかけるなと言ったのだから、こんな話はさっさと終わらせるべきだ。
「いや、高校で転校なんて珍しいなと思って」
「どうでもいいでしょそんなの」
学校を転校したという話から派生したにしても、これ以上は耐えられない。こちらの事情に土足で踏み込んでくるなんて。
「ねぇ、何で転校してきたの?」
「アンタに関係ないでしょ!?」
ついつい声を荒げてしまう。早く寝るつもりだったのに目は覚めるし、気分は害されるし、もう最悪だ。どうしてくれるつもりだろう。
礼実は無理にでも寝ようと目を閉じる。今度こそ寝る。何か言われても、例えそれが癪に障ろうとももう相手にはしない。
最後の思い出作りだから、と甘い態度を取った自分がいけなかった。冷たいかもしれないけど、これは修学旅行じゃないし、自分たちは友達同士ではない。可哀想な幽霊であろうとお互い気を遣うべきだ。
礼実はそんなことを考えていた。まだ、彼女の狙いに気付いていなかったのだ。
「そっか、分かった」
麻耶は囁いた。口元にうっすらと笑みを浮かべて。
「なら私が言ってあげる」
━━━━今、何て言った?
背筋が凍りつく。そんな筈ないと慌てて後ろを振り返った。
そこにいた水沢麻耶はこの日一日で礼実が見てきた彼女とは、まるで別人だった。
「貴方が転校してきたのは、ある事故が原因なんだよね」
「……やめて」
「その事故のせいで、元いた学校には通えなくなった」
「やめて」
「何故なら、ピアノを弾けない貴方はもうその学校に通う意味がなくなったから」
「やめて!」
気付いた時には礼実は両耳を手で塞ぎ、大声をあげていた。横になっていた体も起き上がっている。
「何で、何でアンタがそんなこと知ってるのよ」
「何でも何も……知ってるのは私だけじゃないし」
頭の中が真っ白になる。目の前にいる麻耶は、その大きな目でまるで貫くように礼実を見つめていた。
「私の噂、聞いたことあるでしょ?アレと同じだよ」
━━━━あぁ、そうか。
張りつめていた糸が切れるように、肩の力が一気に抜ける。あれだけ他人の噂を聞いておきながら、どうして今まで気付かなかったのだろう。自分もその標的にされる可能性に。
ストン、と倒れるようにもう一度ベッドに沈む。高い天井が落ちてきそうだ。
「ショック?」
「……そうだね」
麻耶が顔を覗き込んでくる。礼実はそんな彼女の顔を見たくなくて腕で目を覆った。
「私たち、結構似てるんだよ」
「……どこが?」
「少し前まで、エリート街道まっしぐらだった」
アハハ。礼実は乾いた笑い声をあげた。
何がエリートだ。そんなことを自称するなんて馬鹿のやることだ。ハハハ、ハハハ。
礼実の脳裏にこれまでの様々な光景が過る。レッスン浸けの辛い日々、逃げ出そうとしたあの日、それでも漸く手にした称号、称賛の拍手……。
「ははは……」
礼実の目には涙が溢れていた。ほら、こうなるから思い出さないようにしていたのに。
涙を拭おうと持ち上げた右手が視界に映る。もう思い通りに動かないそれを前に、また涙が溢れだした。
━━━━音楽家の両親をもつ私がピアノのレッスンを受けるのは、もはや必然だったのかもしれない。
毎日のようにレッスンがあり、厳しい先生に散々しごかれ、それが終わったら今度は家での鬼のような特訓。子供らしく友達と遊ぶ時間なんてある筈もなく、私の幼少時代はピアノと向き合う為だけに捧げられた。
その結果はすぐに出た。小学校に入学する頃には様々なコンクールで次々に入賞を収められた。努力が報われた。そう思った。結果がついてくれば、練習のやる気も出る。私は自ら進んでピアノと向き合うようになった。そのうち厳しいレッスンも厳しいと思わなくなり、逆についていけない子は努力が足りないのだと軽蔑するようになった。
決して口には出さなかった。が、私は間違いなく天狗になっていた。
だから、バチが当たったのだ。
中高一貫の音楽学校に入ってからも変わらずピアノ一筋だった。毎日ピアノのことを考え、他の誰よりも練習することを心がけた。我ながら随分ストイックだったと思う。
それは、高等部に上がってすぐのことだった。大事なコンクールが近付いていて、とにかくそのことで頭がいっぱいだった。寝る間も惜しんで練習に打ち込み、その成果を着実に上げていた。しかし、その疲れが出てしまったのだろう。
レッスンからの帰り道。自転車を漕いでいる途中で頭がボーッとしてしまった私は、あろうことか信号無視をしていたのだ。赤信号に気付いた時には目の前に車が迫っていて、あっという間に私の体は宙を舞っていた。
後のことはよく覚えていない。断片的な記憶の中にあるのは、冷たくて固いアスファルトの感触と全身を襲う痛み。それから、「明日のコンクール、どうしよう」とかそんなことを考えていたことだ。
「どれ程の怪我を負ったのかは知らないけど、貴方は助かった。でも、少しだけ後遺症が残った」
指摘されて、思わず右手をギュッと掴む。感覚はまだ少し鈍い。
「例え片手だけだろうと、満足に指を動かせなくなった貴方にもうピアノは弾けない。やむなく貴方は夢を断念して学校も転校した」
礼実の心にまた、過去のトラウマが甦る。生き甲斐の喪失、こちらに気を遣うも内心残念に思っていることが見え見えな両親、「命があるだけ有難いことだ」と何度も唱える医者。
色んな笑顔を向けられたけど、どれも汚く感じた。
「礼実って、本当は右利きだったんでしょ?」
ファイナルアンサー!と言わんばかりに麻耶が詰め寄る。
「さぁ……」
「利き手じゃない左手を使ってるから字が汚くなる」
「……」
「字で躓くようじゃ、お箸はもっと難しいだろうね。人前で覚束ない箸使いをさらけ出したくないから、お昼はいつもパンやおにぎりだったのかな?」
煩い煩い煩い!麻耶の無神経な態度にイライラして、また耳を塞ぐ。
こんな話をされるだなんて思ってもみなかった。何なのコイツ。人のトラウマに土足で踏み込むのがそんなに楽しい?
これ以上は駄目だ。とても耐えられない。礼実は目を瞑って無理やり寝ようとした。眠気なんてとっくに吹き飛んだけど、もう麻耶の話は聞きたくない。
しかし、麻耶にはそんな礼実の心の内は筒抜けだったようだ。
「礼実は、可哀想だね」
突如、冷たい手が礼実の腕を掴む。瞬間、全身を寒気が襲い、礼実は反射的にその手を振り払おうとした。
「いい加減にして!」
遂に限界を越えてしまった。礼実は相手が幽霊であることすら忘れ、左手に作った握り拳を怒りに任せて力いっぱい振り下ろした。
当然、当たる筈もなく、拳はベッドの布団へと吸い込まれる。
礼実の腕に貫かれた半透明の顔が笑う。間抜けだねと言わんばかりに。
「でも良かったじゃん。弟さんが頑張ってくれてるんでしょ?」
━━━━あぁ、また。
礼実の脳裏に浮かび上がったのは二つ年下の弟、翔也だった。
「ピアノを弾けなくなったお姉さんの代わりに自分が夢を叶えるだなんて、立派な弟さんがいて幸せだね」
"俺、ピアノ頑張るよ"
"姉ちゃんが出来なくなった分まで、俺が弾くよ"
弟の優しい声が脳内で木霊する。
「分かったようなこと言わないで!」
その声は、簡単に礼実の心を更なる混乱へ陥れた。
「翔也は……ずっとピアノの練習なんて真面目にやってこなかった!お父さんとお母さんに強制的にやらされてたから、ある程度は弾けたけど……実力なんて全然なかった!」
おかしい。こんなこと、誰にも言ったことなかったのに。自分の中の理性が「もうやめとけ」と叫んでいる気がする。それでも、一度溢れた本音はもう止まらない。
「なのに私がこうなった途端、急にやるなんて言い出して……。お父さんもお母さんも翔也にばっかり付きっきり!ピアノを弾けない私なんかいらないんだわ!」
一気に捲し立てる。もう完全に我を見失っていた。一体誰を相手に何を吐き出しているのか、考える余裕なんてなかった。
そして遂に、言ってはいけない一言をぶちまけてしまった。
「こんなことになるなら死んだ方がマシだった……!」
目の前にいる麻耶の口角がニタァと弧を描いて吊り上がる。まるでその一言を待っていたかのように。
「……そうだよね」
麻耶の指が、礼実の濡れた頬を撫でる。
「私も、そうなんじゃないかと思ってた」
そう言ったと同時に、礼実の身体にまたずっしりとした重みがのし掛かる。麻耶は幽霊として礼実の前に現れた昨日のように、彼女のお腹の上に馬乗りになって跨がっていた。
この時になって漸く礼実は我を取り戻した。豹変した幽霊、身動きが取れない体勢。自らの身に降りかかる明らかに異常な状況に、礼実は経験したことのない恐怖を感じていた。
「ねぇ、礼実。提案があるの」
頬に当てられていた麻耶の手の平が、ゆっくり首もとへと移る。
「私、貴方になりたい」
は、と礼実の喉が音を鳴らす。驚きと恐怖に上手く声が出ない。
「私が貴方になれば、全て丸く収まる」
背中が冷や汗でじっとりと濡れている。寒くて堪らない。
「まず、私は勉強が出来る。だからピアノ以外でご両親を喜ばせてあげられる」
怯える礼実に、麻耶が顔を寄せる。めいっぱいに見開かれた大きな瞳がキラキラ輝いている。
「礼実ってさ、ピアノばっかりで勉強なんて碌にやらなかったんじゃない?今の学校の授業にもついていくのが精一杯だったりして」
何で知ってるの?そう言いたくなる程、麻耶の言うことは当たっている。
「でも私は違う。私ならいい大学に行って、希望通りの職業に就ける。そうだ、留学も出来るね。貴方のお家の財力があれば!」
礼実を乗っ取る。その夢を語れば語る程、彼女の瞳は恐ろしい程に輝きを増す。
「利き手の問題だってすぐに解決出来るね。私、元々左利きだし。親孝行だって忘れない。だって素敵な暮らしが出来るのはご両親のおかげだもの。貴方みたいに、いつまでも自分の殻に閉じ籠ってご家族を心配させたりしない。可愛い弟さんのことも大事にするわ」
何これ、怖い、怖い、怖い。
逃げたいのに身体が固まって動かない。反論したいのに声が出ない。どうしようどうしようと頭の中で何度も唱えてみても、案なんて何一つ浮かばない。
そうこうしていると、今度は息が苦しくなってきた。礼実の首を掴んでいた冷たい手が、喉元をゆっくりと押さえ始めた。
「ねぇ、お願い」
息が吸えない。あまりの苦しさに足をバタつかせるも、幽霊相手じゃどうにもならない。
「お願いお願いお願い」
首を締める強さは徐々に強まる。目に涙が溜まってきた。あぁ、麻耶はこんな苦しみの中で死んだのか。こんな状況なのに、頭の隅でそんな思いが巡る。
━━━━もう駄目だ。諦めと共に、礼実の目から涙が伝った。
その時。
「貴方の人生をちょうだい……!」
麻耶がそう叫んだ。
その言葉がぐわんぐわんと反響する。
人生、人生を、私の人生を?何で、こんなところで、こんな奴に……?
そう思った瞬間だった。突然、動かなかった筈の手足に力が湧いてきた。何で何でと思う程にそれは強くなっていく。怖くて仕方がなかった目の前にいる怪物が、憎くて堪らない。逃げ出してやる。今すぐにでも。礼実は激しい抵抗を始めた。
「は……なして……!」
声も出る。礼実は必死で体を反転させると、とにかくベッドから降りようともがいた。
「ちょっと!大人しくしてよ」
「い、いやだ……!」
ベッドの外へとがむしゃらに手を伸ばす。大丈夫、相手は幽霊だが、動いてみれば力はそんなに強くない。
「そんなに動いたら落ちるよ?絶対痛いし怪我するよ!」
煩い。そう言うお前は今も私を殺そうとしてるだろうが。
相手も結構粘るので、今度はゴロゴロと転がって逃げるのを試みる。まるでプロレスでもしているみたいだ。
「━━━━っ!」
遂にベッドから降りられた。勢い余って顔面から着地してしまったけど、そんなこと気にしている場合じゃない。
暗闇の中、周りを見渡す。あった、あれだ。礼実はその先に置かれたある物へと手を伸ばす。いける、あと少しだ。
しかし、手が届く寸前で今度は足首を掴まれる。
「ねぇ、何でお願い聞いてくれないの?」
氷のように冷たい指が礼実の足首にギリリと食い込む。あともう少しなのに。
「離して!」
「落ち着いてよ礼実!怖くないから!」
コイツにもう日本語は通じない。礼実は振り向くことなく、もう一度手を伸ばす。
「自分の人生が不満なんでしょ?なら私にくれてもいいじゃん」
━━━━届いた。礼実は目当てのリュックサックのファスナーを引っ張る。
「私、頑張るから!少なくとも礼実よりも幸せに生きてみせるから!」
「きっとその方がお互い幸せだよ」
「ねぇ、こっち向いてよ」
「ねぇねぇねぇ!」
麻耶が体を這い上がってくる。その気持ち悪い感覚に顔をしかめながら、中に入っていたそれを手に取る。
「ねぇってば!」
麻耶の大声が耳元で響いたその瞬間、礼実はぐるりと後ろを振り返った。
「嫌だっつってんだろ!」
そして最大の怒りと共に、手に取ったそれを麻耶の顔に思いっきり投げつけた。
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