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「お客様!?何かございましたか!?」  数分後。ドアの外からホテルの従業員の必死の呼び声が聞こえた。 「何でしょう?」  礼実はほんの少しだけドアを開ける。 「こちらのお部屋から凄い物音や叫び声がするとの通報がありまして……何かあったのかと」 「あぁ。窓開けてたら虫が入ってきたんで、ちょっと格闘してました」 「……それだけ、ですか?」 「はい」  従業員は呆気に取られたように暫く黙り込む。うっすらと開けられたドアの隙間からこっそり部屋を覗いてみたが、特に変わった様子は見受けられない。 「そ、そうでございましたか。ですが、他のお客様もいるのでなるべくお静かにお願いします。虫の退治なら我々従業員をお呼び下さい」 「分かりました」  従業員とのやり取りを適当に済ませると、パタリとドアを閉め鍵を掛ける。 「ふぅ」  振り返った先にいるのは、虫……ではなく、一体の幽霊。何故か「痛い痛い」と手で額を抑え、泣きながら踞っている。  礼実はそれを冷ややかな目で見ながら、ベッドに腰掛ける。足元には何やら白い粉が散らばっている。これをどう掃除しようか。そんなことを考えながら、乱れたベッドを整え始めた。    礼実が投げたのは塩の入ったナイロン袋だった。事故に遭って幽霊が見えるようになって以来、万が一の時の為に持ち歩くようにしていたものだ。  これが麻耶の額に見事にクリーンヒット。その途端、痛い痛いと喚き始め、そして今に至る。  袋は麻耶に当たった瞬間に弾け飛んだ。おかげで床は大惨事。一体どうしてくれるのだろうか。  チラッと麻耶の様子を窺ってみる。まだ痛みに苦しんでいるようだが、少し落ち着いたらしい。涙ぐむ声は聞こえない。 「アンタさぁ、一体何がしたかったの?」  丸く踞る背中に投げ掛ける。 「何って……散々言ったじゃん。礼実になりたいって」 「嘘だ」  礼実は立ち上がると、その背中の真後ろまで近づいた。 「塩を投げたくらいでそこまでダメージを受けるアンタが人間の体を乗っ取るなんて出来るとは思えないんだけど?」  塩なんて、あくまで気休めだ。実際盛り塩をしても幽霊を祓えなかったなんて話はよく聞くし、塩に頼るくらいなら神社で売っているお守りの方が効き目がありそうだ。まぁ、世の中にはそのお守りさえ破壊する幽霊もいるらしいが。  しかし、麻耶への塩の効果はあまりにも抜群だった。礼実も無我夢中で投げたのだが、正直ここまで効くとは思っていなかった。 「本当は自分でも分かってたんじゃないの?そんなこと不可能だって」  問いかけるも、麻耶は何も答えない。 「ねぇ、何がしたかったの?本当に私の体を乗っ取りたかったの?ただ単に嫌がらせがしたかったの?それとも何?まさか命の有り難みを分からせようとしたとか?」  今度は礼実が麻耶の顔を覗き込む。  そして、少し驚いた。今までお互いそっぽを向いていたせいで気が付かなかったが、麻耶の額の一部がボロボロに崩れていたのだ。塩の影響だということはすぐに察しがついたが、まさかこんなになってしまうとは。悪いのは完全に向こうだが、なんだか申し訳なく感じる。  暫く待ったが、麻耶が問いかけに答える様子はない。もういいや。そう思ってその場を離れようとした時だった。 「……全部、かな」  麻耶がか細く答えた。 「は?」 「乗っ取ろうと思ったのは事実。だけど本当は出来ないだろうなって分かってた」  麻耶が顔を上げる。その表情は諦めの混じった、どこか寂しいものだった。 「私のお父さんが焼身自殺したって話、多分知ってるよね?」  あぁ、そういえばそんなこと言ってた気がする。    ━━━━あの時、目の前で火だるまになってのたうち回るお父さんを見て、思ったの。  何でこの人はこんな死に方を選んだんだろうって。  もっとマシな死に方はいくらでもある筈なのに。何で一番残酷で苦しいものを選んだのかなって。  家を燃やしたかったから?より大きく報道されたかったから?  ……違う。  私を道連れにしたことへの罪滅ぼしだ。  それが分かった時、気付いたの。あぁ、もうお父さんのことは裁けないんだなって。もし、"あの世"って所があったとして、そこに天国と地獄があったとしてもお父さんを地獄へ落とすのは私じゃない。地獄で罰を与えるのも私じゃない。  私が直接、お父さんを裁くことは出来ない。  それは何か嫌だなって思って、考えた。そしたら割とすぐに答えが出た。  道連れにされなきゃいいんだって。  私と一緒に死ぬのがお父さんの目的なら、それを拒むことが私が出来る唯一の復讐かもしれない。なら、全力で方法を探そう。何とかこの世に留まる方法を見つけよう。  例え誰かの体を乗っ取ってでも、成し遂げてやろう。  そう思ったんだ。   「例え出来なくても、挑戦するだけならタダでしょ?最後にもがいてみたくなったの」  麻耶は笑顔を浮かべた。痛みに少しひきつってはいるが、その表情はなんだかスッキリしている。 「教室で礼実と目が合った時、ラッキーだって思ったよ」 「……何で?」  「私、てっきり礼実は死にたいのかなって思ってたから」  そんな風に思われていたのか。礼実はこれまでの自分の態度を思い出す。愛想は良くない、勉強も運動も大して出来ない、しかも転校前のあれこれが全部噂として広まっている。まぁ、そう思われても仕方がないのかもしれない。 「私……さ。自分のこと、何も知らなかった」  今度は礼実が話し出す。 「事故に遭って、確かに絶望してた。けど死にたいと思ってるつもりはなかったし、翔也のことも普通に応援してるつもりだった」  "こんなことになるなら死んだ方がマシだった"。あの時の自分の叫びが頭にこびりついている。 「私、死にたかったんだなぁ……」  ポツリと呟く。そういえば、死にたいと思ったことはなかったけど、特に生きていたかった訳でもなかったような気がする。何もしなくても夜は勝手に眠くなるし、朝は勝手に目覚めるし。行かなきゃいけないから学校には通ったけど、勉強に身が入ったことは一度もない。ピアノ以外の趣味を見つける気も起きなかった。さっき麻耶に指摘されたお箸の件についても、左手で持つ練習すらする気になれなかった。こうして思い返すと、如何に自分が"無駄に"生きていたのかが分かって気分が沈んでしまう。 「そんなことないと思うよ」  麻耶の声に、礼実は顔を上げた。 「一日中礼実と一緒にいて思ったの。私、勘違いしてたなぁって」 「勘違い……?」 「うん。礼実って実は何も考えてなかったよね」  そんなことないと言うので何か励ましてくれるのかと思いきや、より傷口を抉られた気がする。礼実は思わず眉間に皺を寄せる。 「どういうこと?」 「うーん……何ていうか、脱け殻みたいだなって思ったの。絶望とか自殺願望とかそんなの通り越して、もう既に心ここにあらずみたいな」 「……そうかなぁ」  なんだかよく分からない説明だ。でも"脱け殻"という表現には何となく思い当たる節がある。 「だから段々一緒にいるうちに、"もしこの子が本当に命の危機を感じたらどんな行動に出るんだろう"って気になってきて。体を乗っ取ろうと思ったのも本当だけど、それを試してみたくなったのも本当なの」 「……で、その結果、私は子供みたいに泣き喚いた」 「そう。そっちが本音を晒してくれたんだから、私も本気でぶつかろうと思った」  麻耶は真っ直ぐに前を見つめた。額の傷はもう大分塞がってきて、いつもの元気を取り戻しつつある。 「ふーん。アンタの本気のおかげで私は死にかけたんだけど」 「ご、ごめんね!あの時は私もどうかしてた」  首、大丈夫?と麻耶は心配そうに礼実の首もとを覗き込む。そんな彼女の首筋には礼実のものとは比べ物にならない程の跡がくっきりと付いている。 「もういいよ。何かアンタに心配されたら申し訳なくなる」 「え?もういいの?」 「いや、よくないけど……もういい」  麻耶が不思議そうに首を傾げる。当たり前だ。自分でも支離滅裂すぎて何を言っているのかよく分からない。  でも、本当にもういいのだ。危うく死ぬところだったし、あの時の麻耶を思い返すと今でも身震いする程怖いけど。 「アンタのことは許さないけど……でも、アンタには感謝してる」  心に空いた大きな穴に、気付かせてくれたから。    麻耶は嬉しそうにムフムフと笑った。礼実が「気持ち悪い」と言うと更に笑った。    外はもう太陽がうっすらと顔を出し、空が少し赤らんでいる。あーあ、結局一睡も出来なかったな。なんて思いながら、礼実も笑った。
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