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月曜日。
ここは、高井が創った、
女性だけの、上品な、
静かなマンションギャラリー。
来場者のいない日には、事務所で、皆、
揃ってデスクワークをしている。
茉由は、土日、仕事を休んだ。
今日は、久しぶりの職場で、
ここでの気分は、
今までとは、違っているように、感じた。
でも、
未だ、変わらない、ヤツはいる。
茉由は、3人で決めた、とおりにする。
今も、目の前で、薄ら笑いをする高井に、
茉由は、ゆっくりと、微笑み返した。
ただ、それだけ。
「そうか… 」
高井の唇が、かすかに動いた。
まだ、茉由には、
分かっていない、ことがある。
高井は、そんなに、簡単じゃない。
茉由の同期の、佐々木チーフ。
この、
佐々木は賢いが、真っ直ぐな性格。
いつもスグに結論を出したがり、
相手には、ストレートにぶつけてしまう。
―
「あー リーダー お疲れ様です。
でも、チョッと、密着すんの、
止めてくれます?
そいつ、俺の、ですから!」―
同期の茉由を守るため、佐々木は、
高井に言い放った。
けれど、このせいで、
茉由は毎日が辛い
日々になる。
「えっ? リーダー
いま、なんて、言ったの?」
なんだろう、
今、リーダーは、何か、云った。
高井が呟いた、一言が、
茉由には、分からないまま、
訊き返せない。
でも、月曜日は、
何も起こらなかった。
それでも、これが、
高井の怖いところ、
高井は、もっと、
自分に逆らった、茉由に、
残酷だった。
― 「茉由、お迎えが来たぞ!」
佐々木は、茉由を呼びつけた。
満足そうに。
茉由は、こんなに、明るい、
佐々木を見るのは意外だったのか、
少し警戒しながら、事務室に入った。
「こんにちは、茉由さん、
お迎えに来ました」
部下に対しても礼儀正しく、
軽い会釈をしたその人は、
茉由よりも3歳年下の、
亜弥チーフだった。
彼女は、年下だが、落ち着いた、
品のある美しさを持つ女性で、
ずっと、営業担当として頑張ってきた
才女だった。
今度のマンションギャラリーは、
女性だけでやっていくらしい。
茉由はホッとした。先日の同期会で、
咲と梨沙と、すっかり、
打ち解けたので、単純な茉由は、
「女性チーフ」に
全く警戒心を出さずに、安心できた。
それには、佐々木も同じだった。
亜弥チーフにならば、
安心して茉由を任せられると思っていた。
でも、
茉由の、胸の辺りは、モヤモヤも、
していた。
職場では、常にベッタリとくっ付いて
いた高井が、
佐々木の、あの、たった、一言で、
茉由に近づかなくなったのが、
なにか?
スッキリはしなかった。
けれど、先日の同期会では、茉由は
素直に同期に甘えられ、
とても楽しめた。
それ以来、茉由は、
すっかり、
佐々木の云う通りにするのが
間違いのないことだと、
楽観視していた。
その佐々木が、あまりにも満足そうに
機嫌が良かったので、
素直に、亜弥チーフに就いて
行くことにした。
今度の仕事場は、少し都心から離れた、
山の手の、マンションギャラリーだった。
ここに建つ新築マンションは、
眺望も良い、
斜面の立地を生かした、メゾネットタイプ。
1.2階の吹き抜けもある、
床面積も広いもので、
各フロアには、共有する通路が無い。
各住戸へは、グランドエントランスから
専用通路で分かれており、
プライバシーにも気を配られている。
ここは、時間に余裕のある、富裕層に
ターゲットを絞った、
高級感のあるマンションで、限られた者
が入るのに相応しい、
戸数が抑えられた物件だった。
どんなに景気が悪くても、日本の中心には、
お金持ちはいるのだろう。そのような
方の中には、
便利な都心よりも、ゆったりとできる
場所を好む方もいる。
こんな、高級感のあるマンションは、
最近は少なくなっていた。だから、
そうした方々は、きっと、
待ち望んだ新築物件だったのかもしれない。
そして、ここのマンションギャラリーには、
品のある、亜弥チーフは適材適所。
そんな彼女を抜擢したのは、リーダー、
そう、高井だった。 ―
火曜日の朝。
茉由はスッキリしないまま、
マンションギャラリーへ出勤した。
そんなふさいだ茉由とは正反対の、
眩しい、華やかな、女性がいる。
今朝も、春先に合わせた、
春の風に良い香りを乗せてなびく、
柔らかな肩までのウェーブの髪型も、
穏やかな日の光に似合う、センスの良い、
ソフトなフレアスカートの、
フェミニンな、ビジネススーツも、
ふんわりと咲いた、
ラナンキュラスの花のよう。
キチンと身だしなみを整えた、
チーフが茉由を出迎えた。
いつも、魅力に満ち溢れ、優しい
気遣いができる人。
上司なのに、誰よりも早く出勤し、
茉由を優しく迎える。
ここは、女性だけの、上品な、
こじんまりとした職場。
「あっ、茉由さん、
ご挨拶させて下さい。
私、本社に往くことになりました。
広報へ異動です。
短い間でしたが、お世話になりました。
ご一緒にお仕事できて、
良かったと思っています。
貴方の事、忘れません。
違うフィールドになりますが、
これからも、よろしく
お願いいたします」
「ハイ?…」
この展開は、
茉由の、全く、分からない事だった。
この、チーフが、本社?広報?
異動になるの?
「それでは、皆さん、
宜しくお願いします」
これは、チーフの最後の挨拶だった。
「わぁ~、凄いですね! 本社!」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます!」
「本社勤務、素晴らしいです、
広報への異動、
チーフのこれからのご活躍、
私たち、営業部、
接客担当からも、
応援させていただきます。
本当に、おめでとうございます」
「本当に、おめでとうございます!」
パチパチパチパチ…
「亜弥君、おめでとう!」
高井は、とても、良いタイミングで、
チーフに花束を手渡した。
それは、
花嫁が手にするブーケのような、
真っ白なレースに包まれ、
爽やかなブルーのリボンで纏められた、
上品なものだった。
そのまま、高井は、亜弥チーフに
寄り添った。
センスの良い上品なビジネス
スーツに身を包んでいる二人。
お揃いの接客用の三つ揃えの
スーツを着ている茉由たち、
女性スタッフたちは一列に並び、
この二人と、向かい合った。
ここは、上品な、こじんまりした
マンションギャラリー。
まるでチャペルの、結婚式のようだった。
「わぁ~、素敵!」
「本当!」
「亜弥チーフ、美しすぎる!」
「リーダー、素敵です!」
「なんてお似合いなの」
「チーフ、ずっと、
このままでいて下さい」
「リーダー、亜弥チーフと、お幸せに!」
皆の賛辞は続く。
嬉しそうに、はにかむ亜弥チーフは、
何も悪くない。
高井は、そんな亜弥チーフを、本当に、
愛おしそうに、
皆の前なのに、抱きしめた。
「キャァ~!」
「わぁ~」
「リーダー?」
「亜弥チーフ、お幸せそう~」
「おめでとうございます!」
もう、ここはどこ? 私は?
リーダーは、何をしているの?
茉由は、めまいがした。でも、
確りしなければならない。
ここの皆は、何も、知らないのだから。
「亜弥チーフ、おめでとうございます。
心より、お慶び申し上げます。
どうぞ、お身体にお気をつけて、
これからも、ご活躍を!」
茉由も、心からお祝いを申し上げた。
こんなこと、
いつ決めたの?
なんで、
そんなことできるの?
リーダーが何を考えてるのか
分からない。
ここのマンションギャラリーは、
チーフが代わる。
亜弥チーフは、本社の、広報へ、
異動になる。
これからは、会社の顔として、
今よりも、
広い場で、きっと、活躍していく
ことになる。
人に気配りができる、華やかな、
才女の亜弥チーフには相応しい、
ステップアップ。
これは、高井の推薦で決まった、
人事だった。
この、亜弥チーフに、誰よりも、
目立つ、
ちゃんとした、結果を、
出させるために、
「女性だけのマンション
ギャラリー」との、特徴を出し、
この、女性らしい、亜弥チーフに、
確かに、鮮やかな脚光が集まる様に、
必ず、誰よりも、際立たせるように、
高井は力を使った。
それを、本社は、評価した。
先日の、梨沙の「事」があってから、
まだ、間もないこの人事。
本社では、さぞ、明るいニュースに
なった事だろう。
高井は、本社勤務ではないが、
本社の人事では、
良いことも、悪いことも、
高井が考えた通りの、事が、通ってしまう。
高井は、営業部のトップではない。
トップのGMの次の立場の人間だった。
GMは、茉由の同期の佐藤の大学の
先輩にあたる方、
とても優秀で、部下に対しても、
We are all equalな、
感じなのだが、高井は違っていた。
高井は、とても…
ここからも、まだまだ、高井は、
やりたい放題に、
きっと、
茉由と周りの者を、楽しみながら、
メチャメチャにしていく。
高井は、茉由にやきもちを妬かせる為に、
亜弥チーフとの仲を見せつける。
でも、さほど意味がないことだったと
分かると、
また、違うことも起こしてしまう。
高井は、
茉由が、鈍感なのも分かっている。
でも、それでも、
簡単に事を終わらせない。
気分を害したのならば、
云ってくれればいいのに、
自分の怒りが、
どれほどのものか、
茉由に分からせるように、
茉由に不満があるだけなのに、
茉由の周りを巻き込む。
その方が、
茉由にダメージが大きいことも、
きっと、ちゃんと分かっている。
そうやって、
茉由が頼りにしている、同期たちを、
茉由に近づかせないように、していく
のだろうか。
高井には、茉由が微笑み返したことなど、
全く、効き目がなかった。
そんな、程度の、こと、
せっかく、咲と、梨沙と、茉由の3人で、
いろいろ思案したのに、
簡単に、無いものに、されてしまう...
それに...、三人会で、ようやく、
高井に対する気持ちもふっ切れて、
どうにか、
ここでも、やって行けそうだったのに、
それを高井は、急にやめた。
いつのまに ? こんなことを…
でも、高井が、
ここまでにしたのだって、
きっと、
意味があることだけは、
茉由にも分かる。
このマンションギャラリーでは、
高井に逆らった茉由は、虐げられ、
従順に高井に従っていたチーフは、
ご褒美を与えられたように、
次のステップに上がっていく。
ハッキリと、
暗、と、明、は、分かれていた。
単純なこと。
高井はその為に、力を使い、
茉由に、それを分からせるまで、
ワザワザ、
ここで一緒の働いていた、
何人もの人も、動かしたようだった。
そして、
チーフが代わった後の、
女性だけのマンションギャラリーには、
もう、高井は来ることがなくなる。
本当に、
女性だけの、マンションギャラリーに
なる。
でも…、
高井はこの日、
事務所での、チーフの最後の挨拶の後、
出かける準備をしていた。
支度を終えた高井が「長」の席から離れ、
事務所から出ようとしたとき、
高井は、茉由の後ろ側に廻り、茉由の
耳元で囁いた。
「お前のことを決められるのは、俺だ」
と。
茉由は、高井が、一瞬重なった、
この背中が熱くなる。
高井は、茉由が振り向く間もなく、
事務所から出て行った。
もう、ここにはその姿はない。
けれど、高井は確りと、
その存在を茉由に残していく。
どうして、ここまで、
茉由は抑えつけられるのだろう。
ずっと、
やられっぱなし、
あの、
佐々木の一言で、こんなにも、
ここまでも、される。
高井は、
茉由に一言も、
いわせないまま。
あまりにも、目の前で行われた、
高井の作為的行為に、また、茉由は、
高井のお人形の様になってしまうの
だろうか、
茉由は、また、自ら、動ける、
その、自由を、奪われたように
感じてしまう。
「お前は、何も、自分で、するな」
と、云われたような気がした。
「どうすれば
良かったのだろう…」
口数が少ない、
高井は、
とても、
厄介な男……
茉由は、このマンションギャラリーで
起きた、
この結末を、咲と梨沙には、すぐに、
話せないでいた。
もう、
茉由の頭の中は、また、グジャグジャ。
何度も、同じことを頭の中にだしては、
考えている。
リーダーは、
いったい、
私のナンなの……
「フゥ~、」
気分は落ちこんだままでも、
やらなければいけないことも有る。
高井に振り回されても、
仕事は、仕事。
茉由は、マンションギャラリーでの
接客の仕事をしている。
接客担当は、常に、
チャントしたアテンドマナーを身に着けて
いなければならない。
それは、どんなにベテランになっても、
常に正しく、
スマートに、接客が行われなければ
ならないとのこと。
だから、「慣れ」、などは、決して許
されず、
この会社では、どんなに接客の経験を
積んだ者でも、
定期的に行われる、本社での、
マナー研修には、参加しなければ
ならない。
茉由は、今回、ここから、
「一人」での、
参加となった。
本社で開かれる、今回の、
研修メンバーには、
茉由が知っている者はいなかった。
この会社の接客担当の仕事には、
同期の者は、いない。
咲は、建設部、梨沙は、修繕部。
佐藤と佐々木は営業担当だった。
茉由は、独りぼっちで、マナー研修に
参加する。
けれど、
同期の建設部の咲と、修繕部の梨沙は、
本社にいるのだから、
それぞれの仕事の後は、三人で逢う
こともできる。
茉由は、そのつもりで、咲と梨沙、
この2人に連絡をしていた。
まだ、
ダメだった、上手くできなかった、
あの事は、話せていなかった。
茉由の研修後、の、咲と梨沙、の、
それぞれの仕事、の、終わった後で、
その時、に、様子を見ながら、
2人には報告しようとも思っていた。
その、つもり、だった。
研修後に咲と梨沙、この2人に会う
ことは、今までの事、せっかく、
3人で考えたことが、上手くできなかった
ことを報告するのに、
茉由の気持ちの半分が、落ち込み、
半分は、また、
賢い咲と、頼もしい梨沙に会えることで、
茉由には足りないものを、ちゃんと授けて
くれるようで、
茉由には心強い。
気分を変える。
研修後に、2人に逢えること、
茉由は楽しみだった。
マナー研修の当日、
久しぶりの本社に、茉由は、とても、
緊張した。
研修では何度も訪れているのに、
「マナー研修」だけは、違っていた。
営業部の「研修」は、講習のものと、
「実技習得」のものがあって、
接客担当の茉由の仕事にもそれがあるが、
今回のマナー研修は、ロープレを繰り返し、
それを試されるものだから、研修中は、
ずっと試されること、になる。ずっと
緊張した一日になる。
茉由は覚悟し、襟を正して、マナー研修
に参加した。
「おはようございます」
「おはようございます」
会場に入った時から試される。毎回、
どれが、基準になるのかが分からない。
慣れを正すのだから、毎回、違うことが
起きる。
このマナー研修では、航空会社の
CAのOGが講師になり、
接客のロープレも、行われる、
その場、その場での、事が、
何パターンも、試される。
研修会場には、各セクションが設けられ、
それぞれで、シチュエーションが
繰り広げられやすくなっている。
各セクションは、
接客ブースや、ミニキッチン、
ここでは、お茶出しや、営業担当に引継ぎを
するまでの事が設定されたり、
展示スペース、
ここでは、物件のご説明の設定がされたり、
エントランス、通路、エレベータなど、
ここでは、お客様のご案内の仕方や、
ご挨拶などが設定されたりする。
これらは、その状況説明を省くために
設けられている。
また、同時に、実際に展示してある、
新商品の知識も身に着ける。
マナー研修は、
ここで、それぞれ、自分で設定し、
視て頂く。
接客は、「人」にもよるのだから、
試す人でも変わるし、
同じことでも、その、時々で変わる
のだから、
考えたらきりがなく、この研修だって、
本当に、実践で役に立つのかは
分からないが、
「仕事」として、接客をするのだから、
やらなければならない。
今回は、お辞儀の仕方に始まり、
姿勢を正した、ランウェイを歩く
モデルのようなスマートな歩き方、
女性らしい撓りを加えた淑やかな
しゃがみ方、
ヒップの大きさを目立たせない、
動作が大きくなり過ぎない、
静かな着席の仕方、音を立てない、
スゥッと、すばやい起立の仕方、
などと、
飛行機機内で、CAさんが、
お飲み物をお出しする所作を学んだ。
お飲み物も、コールドと、ホット、
で所作は変わる。
ご挨拶、お声がけ、発声には、
いろいろ。
これは、腹筋がやられる人もいる。
お腹がすくのも早くなる。
本社の別フロアまでは響かないが、
かなり、凄いことになる。
「本日は、ご来場いただきまして、
誠に、有り難う御座います 」
「本日は、ご来場いただきまして、
誠に、有り難う御座います 」
「 ありがとうございます 」
「 ありがとうございます 」
「 かしこまりました 」
「 かしこまりました 」
「 おかえりなさいませ 」
「 おかえりなさいませ 」
「 またのお越しをお待ち
申し上げております 」
「 またのお越しをお待ち
申し上げております 」
お辞儀をしながら、離れたところに立つ、
講師までにも聴こえるよう、
口をハッキリと動かしたご挨拶の練習、
営業担当の話しの邪魔にならぬような、
静かな伝言の仕方、など、
動きのある、立ち居振る舞いのマナー
では、実際に広い会場内で、
皆、全員が、チャントできるまで、
何度も何度も、動き回り、
皆、全員、立ちっぱなしで、繰り返される。
皆お揃いの、6センチのハイヒールを
履いたまま、
キッチリとボタンが全て留められた
スーツ姿での所作のチェックは、
身体はあまり自由には動かせずに、
それに緊張感も加わって、
かなり、疲れる。
中には、耐えられなくなって、
壁に寄りかかってしまう者もいるが、
すかさず、講師からの檄が飛ぶ。
「確り、なさい!」
女性だけの、今回の研修でも、とても、
穏やかに、とは言えない、
意外にハードなものだった。
皆、営業用スマイルはキープした
ままだが、
足元は、次第に、ガクガク、
ギクシャクしてきた。
『 パチン! 』講師が手を叩き合図する。
「 ハイ!それでは、昼休憩にいたします。
午後は、座学研修です!」
「 ありがとうございました 」
「 ありがとうございました 」
皆、ホッとした。
今回の研修では、昼休憩は
一時間だった、
外に食事に行く者や、各々が持参した
ものをこの会場で食べる者もいた。
午後の座学研修のために、皆が座れる
ようにテーブルが出された。
「やっと座れる」茉由の脚は、
もう浮腫んでいる。
ここで食事をする者は、
10名ほどだった。
その中に、茉由の知り合いはいな
かったが、午前中の、
厳しい研修の後で、すっかり、
皆運命共同体のように打ち解けていた。
けれど、皆、それぞれが、着席し、
食事を始めてから、しばらくたった頃、
せっかく、皆一つになって打ち解けて
会話を楽しんでいたのに、
『 バァン‼ 』
突然、茉由たちの、楽しんでいた
休憩時間が、邪魔された。
何もない広い会場の壁に、一つだけ、
やたらと目立つ、防音効果のある、
重い大きな、両開きのドアが、
勢いよく、開かれた。
左右、片側ずつに人が付き、2人の
揃った、力で、勢いよく。
颯爽と、現れたのは、王子さまではない。
黒服、長身の男。
総務の担当にここまで案内された、
高井と、その2人のおつきの者。
管理職として、圧を振りまきながら、
高井を先頭に、三角形になって入ってきた。
おつきの者は、手際よく、
数種類のラテと、フィナンシェを皆の
好みを聴きながら出していく。
それを、終えると、残りは纏めて
テーブルの隅に置いた。
ちゃんと、今日の研修参加者の数だけ
あった。
「お疲れ! 差し入れだぞ!
皆、コイツの事、宜しく頼むな!」
高井はいきなり、茉由の肩に手をかけ、
後ろから支えた。
総務の担当者の女性は、通路に留まり、
かなり離れたところから事態を見守って
いる。
静かな穏やかな笑顔で、何も問題はないと、
皆を安心させるようにその光景を眺めている。
おつきの者は、そつなく、距離を置いて
控えている。
茉由はキョトンとし、研修メンバーは、
あ然とした。
「じゃぁ、な、
良い子にしてるんだぞ!」
高井は、軽いタッチで、
茉由のオデコに手のひらを当て、
入ってきた時とは反対向きの、
高井を先頭に、三角形になり、
アッサリと退場した。
扉は再び閉められた。
会場は、静まり返る。
茉由は、固まった。
「ねぇ、スゴクナイ?」
「凄いね 」
「あの人、高井リーダーでしょ?」
「羨ましいよね 」
「茉由さん?」
「リーダーと茉由さん?」
なんか、変な空気になっている。
「あの人、ただ、派手な人なの 」
「あの人」は、変だったかな?
茉由は、一瞬、考え、
「いつも、部下の、皆に、
親分肌?なの…」
茉由は、一応、言い訳をしてみた。
ハードな研修で、疲れた身体には、
甘いものが嬉しい。フィナンシェは、
会場のあちらこちらを汚す心配も少ない。
ここには、高井と亜弥を祝福した
スタッフは来ていなかった。
ここに居る者は、
高井と茉由の仲を、
認めさせられた。
こんなこと、
知らなかった茉由、
でも、嬉しかった。
高井は、子供だましの飴と鞭を上手に使う。
「あんなこと」があった後で、ちゃんと、
茉由に「特別に」寄り添った。
「このままでも、
良いのかもしれない」
茉由は、そう思ってしまった。
高井のコロンの匂いは、この会場にも
残っている。
皆、高井の男臭さを実感した。
全く、
やりたい放題。
この男…、
周りの者が、どんなに大変か
分かっているのだろうか、
いや、…、
きっと、
なにも、気にしていない。
これからも…、
高井は、
ドライブが好きだ。
茉由の
マナー研修が終わるまで、
高井は茉由を待っていた。
前にも、そんなことがあった。
おつきの者は、もう、いなかった。
あの、ために、
ワザワザ動かされたのか、
その人たちは、この、
高井と茉由、二人のことをどう
思ったのだろう。
「リーダーとお気に入り」なのか、
きっと、なにも、
高井から、聴かされていない。
そして、本社には、
異動になったばかりの亜弥も居る。
高井はいつも、堂々としている。
そんなこと、何も気にしていない
ようだった。
それに、今日は、
茉由は、研修の後、咲と梨沙と、
約束をしていた。
その2人は、マナー研修がやっと終わり、
ソソクサと茉由が1階に下りてくると、
すでに、揃ってロビーのソファーに座り、
会話を楽しみながら待っていた。
茉由は嬉しそうに2人に駆け寄る。
けれど、茉由が2人のところに着く前に、
突然、
高井はそこに割って入る。
「 おい、往くぞ!」
茉由に投げかけられた高井の低い声が、
咲と梨沙を、茉由から遠ざけた。
2人は、驚いた顔をしている。
この二人は、茉由が誘ったのに、
高井はしっかりと、咲と梨沙、
茉由との間に入ってきた。
先にいた2人を睨みつける。
この2人の事が邪魔だと、
あからさまに態度に出している。
高井は茉由に、今、背を向けている。
茉由からは見えないが、
咲と梨沙から見える高井の顔は
険しかった。
咲と梨沙、少し離れたところに
いる茉由。
高井はその間に入って譲らない。
茉由は、2人に近づけない。
高井は茉由を待つ間、無駄な時間は
過ごしていなかった。
ここは、本社。咲と梨沙の仕事場。
高井は茉由を待つ間に、咲と梨沙の
上司、
建設部の設計部長と、
修繕部の施設管理部長を訪ねていた。
そして、確りと話をつけていた。
自分の邪魔は、させない。
せっかく、
茉由を待っていたのに、
これから、咲と梨沙には…、
咲は、直属の上司、設計部長に、
「咲君、先日、高井リーダーの仕切る
内覧会 に責任者として、
君が、入っていたよな?それは、
間違いないね?」
急に、部長に問われた件は、あの内覧会、
咲が後輩の結奈のために、
高井に咬みついた、内覧会だった。
― 咲が可愛がっていた、
後輩の、結奈は、
お客様をお迎えする際に、白手袋を着用
するのを忘れ、ことも有ろうか、エント
ランスで仁王立ちする高井に、
その姿が見られてしまう。
これも、咲には些細な事のように最初は
思っていた。
結奈が、何にも触れる前、このエントラ
ンスホールから出る前に、それに気づ
けば、大丈夫だと思ってしまった。
エントランスホールで、スタンバイして
いる咲の前を、まだ、何も手を動かして
はいない結奈が通り過ぎるタイミングで、
その動きが大きくならない様に、そっと
声を掛けて気づかせた。
これにはお客様も、さほど違和感はな
かったことだった。
けれど、次の日、結奈は、現場から
外されていた。
朝礼の後、咲はスタッフから
「結奈は、リーダーの前で失敗をした
ようだ」と報告を受けた。
咲はこの現場で、アテンドの責任者だった
が、営業部ではなかったので、
この内覧会では、ここを仕切る営業から、
指示を受ける立場だった。
だから、この結奈の処分も
事後報告だった。
結奈は社員ではなかったので、自宅待機
になれば、彼女の収入は減ることになる。
これには、咲は、さすがに黙ってはいら
れなかった。
「何故ですか? なぜ、
結奈は外されたんですか!」
咲は、高井に咬みついた。これに、
高井は表情を変えない。
「君は、茉由君の同期だったか?」
全くかみ合わない返事をした。
「何を仰っているのですか?」
咲は怪訝そうな顔になる。
高井は「否」とだけ応えた。
高井の重い圧がある沈黙は続いた。
咲は、そこから退くしかなかった。
咲は、必要以上に傷ついてしまった結奈を、
慰める電話しか、できなかった。結奈の
入れる現場を急いで探し、二日後に、
現場の状況を確認し、結奈に付き添い、
送り込んだ。
咲は、高井が何かしても、この
「高井を如何することもできない」
と、思い知らされた。 ―
咲の上司の設計部長は、事実確認をした
後で咲きに、告げた。
「そうか、咲君、暫く、内覧会には入ら
ないでくれ、まぁ、君は優秀だから、
他にも、してもらわなければならない
仕事は、たくさんある。しばらく、設計
の仕事に集中しなさい。物件の検査は、
お願いするが、竣工検査以後の、営業が
仕切る、内覧会にはいかないように 」
「『営業あっての、この会社』だよ、
営業には、逆らわない、いいね!」
咲は、後輩の結奈を、もう、守っては
あげられない。そして、営業に、迷惑を
かけたと、責任者としての仕事も
取り上げられた。
明日から、しばらく、デスクワーク、
だけ、になる。
そして、
梨沙は、修繕部、施設管理部長に、
「梨沙君、君の部下が、一人、減ってしま
ってね、彼が担当していた、管理物件は、
え~と、15件、かな、その物件の管理担当
がいないままだ。いくら、現地スタッフが、
優秀でも、これでは、管理が、ちゃんとでき
ていないことになる。後任が見つかるまでは、
元上司として、君が担当してくれ 」
「まぁ、君は優秀だから、このくらいの、
件数は、キッチリと、管理してくれるだろ
うと、私は思っているよ、安心している。
優秀な、君に任せられる。頼んだよ 」
「そうそう、それと、君は、アパートに
一人暮らしだったよな、これから、
忙しくなるから、社宅に入りなさい。
ちょうど良い部屋が空いてね、まぁ、
門限は10時までだが、本社から近い
から良いだろう。先日、身体を壊して
一週間、休んだばかりだな 」
「これで安心だ、夕食も
ちゃんとついているしな、
入居者以外は立ち入り禁止だ」
「あ~、暫くは、外で酒は飲まない様に、
分かっているよね」
この会社は、男優位のところがある。
女子社員の社宅は、門限が厳しく管理され、
門限が過ぎても、在室確認が取れないと、
管理人から上司に連絡が入る。梨沙は係長。
係長の者がこの社宅に入るのは異例の事、
梨沙は、生活までも、厳しく会社に管理
される。もう、咲と茉由を部屋には呼べ
ない。仕事の付き合いの飲み会にも出席で
きない。仕事づきあいも悪くなる。
梨沙は、もう、元部下の再就職先だって
見つけていたのに。
― この社員は、まだ、3年目なのに、
係長の梨沙に、酔った勢いで、
覆いかぶさるなど、絡みだした。
「良いじゃないですか~、梨沙ちゃん!」
もう、係長としてではなく、
ただの女としての扱いだった。
梨沙は、すでに酔っていた。
だから、この場で、梨沙も、
ちゃんとした
対応が、できていなかった。
酔った勢いで、力任せに梨沙に絡みつくこの
社員を、思いっきり、払いのけてしまった。
梨沙は身体が小さく、思いっきり払いのけて
も、男なら十分に堪えることができる、
ハズだった。
でも、
この社員は、カウンターのエッジに額をぶつ
け、そのせいで、裂傷もし、酒も入っていた
ので、血の巡りも良くなっていたのか、
かなり流血した。
梨沙は身体が小さく、この男子社員を
支えられない。
結局、店の人に救急車を呼ばれてしまう。
高井は、この時にもこの店にいた。
「店の人の対応は間違ってはいなかった。
騒ぎを起こしたのは、この男子社員だった」
そう高井は判断した。
この社員はそのまま入院し、
入院中の5日目、
自己都合で退社した。
すべて、郵送で手続きされた。
梨沙は会社から処分されなかった。
この男子社員からも、
自分が酔っぱらって、頭をぶつけた、
事故だったと伝えられた。
梨沙は、責任を感じた。
自分が確りしていれば、このようなことは
起こらなかったのに。
自分が、本社近くで、社員が立ち寄れる
この店に通わなければ、
この店で、仕事の続きをするようなことを
暗黙の了解にしなければ、
このようなことも起きなかったと、
猛省した。
いまさら、反省してもしょうがない。
梨沙は、高井の前で、社会人として
失態をさらしたと自覚した。
梨沙は、自分が処分されなかったことに、
苦しみを感じた。生殺しの様に、この会社
に残されたように感じた。
もし、
この場に高井が居なければ、自分が責任を
取って会社を辞め、この男子社員を残した
かもしれない。
けれど、それは、今、梨沙が感じているよ
うな苦しみを、この男子社員に与えること
になるのかもしれない。
店に迷惑をかけたのだから、会社としては、
処分を下さなければならない。
この件を、梨沙は、上手く判断できない。
自分の力の無さに、ただ、無気力になる
だけだった。
高井は、直属ではないが、上司として、
間違ってはいない判断をしたと、梨沙は
認めるしかなかった。 ―
あのバカ騒ぎした、同期会から、まだ、
そんなに過ぎてはいないのに、
茉由の同期には、事が起きすぎる。
咲と梨沙は、今日、茉由と会えたら、
茉由が2人に話しておきたいことがある
様に、
この2人からも話をするつもりだった。
でも、高井は、茉由にこの2人を
近づけなかった。
「もう、茉由には近づくな」
と云わんばかりに。間に入った。
「おい、先に車に行っていろ」
高井は、咲と梨沙から茉由を遠ざける。
茉由の後姿が消えたのを確かめると、
咲と梨沙に話しかけた。
「二人ともお疲れ様、
せっかく仕事を
終わらせてきたようだが、
君たちの 上司が呼んでいたよ、
スグに戻った方が善いな、
話しがあるそうだ」
フクミを持たせた云い方、で、
高井は、咲と梨沙にそう告げると、
茉由の待つ駐車場へゆっくりと向かった。
咲と梨沙が今見た、高井の貌は、
茉由の上司としての貌ではなかった。
男としての貌だった。
でも、茉由は、
ここにも、高井が登場するなんて、
知らなかった、
高井が、また、今日も、この2人に何か
したのも知らなかった、
茉由は、咲と梨沙に話しかけることも
できなかった。
茉由は、高井に背を向けながら急いで階段
室に入り、地下駐車場に下りて行った。
エレベータは普段から使わないので、
高井には何も不信がられなかった、咲と梨沙
に急いでメッセージを送信した。
「ゴメンネ」
それを送るのが精いっぱいだった。
これだって、
高井に見られたら、大変なことに
なると茉由は思った。
だから、
スグにスマホの
電源を切った。今、咲と梨沙から返信が
きては困ると思った。
茉由と、咲と、梨沙の3人は、
眉間にしわが寄っていた。
3人とも同じように息苦しさを感じた。
また、茉由は、同期との間に、
距離を作られてしまう。
せっかく、咲と梨沙は待っていて
くれたのに。
高井は、
茉由が、
自分のことだけを、
高井の、
だけの、
ものにならないと……、
駐車場に向かう高井は、もう、
不機嫌ではなかった。
今日の、咲と梨沙の事など、
高井にとっては、さほど、
大した、ことでは、なかった。
先日までの怒りはどこに行ったのだろう。
いつ、高井の怒りは収まったのだろう。
茉由が、おとなしく、佐々木の事を、
何も言い訳せずに、マンションギャ
ラリーで、仲の良さを見せつける、
高井と亜弥チーフの毎日を、真正面で、
見ることを強制されながら、そこで、
疎外感を味わいながら、耐え続けた
ことが良かったのだろうか、
仲の良い、咲と梨沙の、あの事を、
高井に、問い詰めなかったことが、
良かったのだろうか、
茉由は車の中で大人しくしている。
やっと来た、高井は、無言で車の
エンジンをかけた。
高井は、今日、咲と梨沙の上司に
「話をつけた」
ことを茉由には言わない。
何事もなかったかのように、
茉由とのドライブを楽しむ。
無表情のまま、まだ、何も喋らない。
「もう、怒ってはいない」とも、
云わない。
車の中は、高井の香りが充満していた。
茉由は、その香りを思い出した。
高井の、男臭い、香りを。
高井は何も喋らない。
これからどこに行くのか、どのくらい
ドライブは続くのか、
茉由には分からない。
茉由は、何も分からないままなのに、
高井に何も尋ねない。
だまって、
助手席に座っている。
茉由の手には、
小さな花束が握られていた。
この、ブーケのような花束。
真っ白なレースに包まれ、
真紅のリボンで纏められている。
このブーケの花の香りは、ない。
この花にも、これからのドライブで、
確りと、高井の匂いが、纏わり憑く
のだろう。
二人は無言のまま、高井の車は、
夕方の、湾岸高速道路を、神奈川
方面に走っている。春先では、もう
この時間の空は真っ黒で、前方だけ
は明るいが、高井の車は、薄暗い中
を走っている。
茉由は、助手席から前を見ると、
フロントグラスには、運転する高井が
映っていた。相変わらず高井は無表情、
何を考えているのか、機嫌は悪くない
のかも分からない。
全く、喋り出す様子もなく、
前方の遠くを見つめている。
茉由は、横を向かなくても、
少し、
目線を左に寄せると、
ちゃんと
高井の姿が目に入る。
なんだか、懐かしい。
亜弥の知らない、茉由だけが知る、
ドライブを楽しむ高井の顔だった。
茉由も、黙っていた方が、
心地良かった。
その方が、高井と同じことが、
多いような気がした。
喋り出して、お互いの気持ちが
違っていたら嫌だった。
だから、茉由も、黙っていた。
高井は、なにも、はっきりとは、
させない。
茉由も、今は、同じだった。
高速道路は、あまり渋滞はしておらず、
まだ19時前だった。高井は、この時間、
空車率が高い、横浜の山下公園の一番
奥の駐車場に車を入れた。
車から降りると、港の、海の、香りが
する。
二人は、山下公園の真ん中まで歩いて
行くと、港に停まっている大きな客船
が見えた。ニュースにもなる、大きくて、
立派な、女王の名がつけらた豪華客船は
有名なので茉由も知ってはいるが、名前
とは違い、とても勇ましく、頑強さも
あるので、男性の名が似合うのになんて
思ってしまう。
少し、夜になったころに見ると、黒光り
していて、なんだか、
「リーダーみたい」なんて思ってしまう。
「二人で、あの船に乗れたらいいのに」、
このまま、二人だけで海の上に行けたら
いいのになんて、思ってしまう。
そんなこと、思ってみても、横にいる
高井には絶対に言えない。
茉由は黙って高井について行くので、
二人の会話はまだない。こんな、
ムーディーな公園で、乙女チックなことを
言ったら、無表情の高井は、少しニヤケて、
喜ぶのだろうか、
茉由は、神奈川県の出身なので、実は、
山下公園なんて、チョット飽きていて、
あまり、感動しない。
氷川丸だって何度も乗ったし、
夜景クルーズだって何度も、体験しち
ゃったし、たとえば、観光客が喜ぶ、
花火大会も、パレードも、
ここで行われるイベント全て、子供の頃
から、何度も体験済みだった。
高井と一緒にいても、ここは別に
…なカンジ。
でも、
こうやって、他の人たちよりも、ずっと、
ゆっくりとしたスピードで、並んで
歩いていると、二人だけの、その人たち
とは、違う空気を吸っているようで、
慣れてしまった港の空気も、今日は、
違うと、感じた。
高井と腕を組んでいなくても、二人は、
くっ付いている。
背の高い茉由よりも、もっと背の高い、
高井の肩の位置がちょうど良くて、好き、
右側に顔を向けると、高井の堂々とした、
前に向かって胸を張る姿勢の、上着の胸の
ポケットに入っている、
銀のボールペンが目に入り、茉由は、
なぜか、それが、欲しくなる。
ここの景色よりも、ずっと、そこから
目が離せない。今、欲しいのは、
綺麗な夜景じゃなくて、
このボールペンだった。
ちょっと、いたずらっ子の様に、
何も言わないで、
そっと、ポケットからボールペンを
抜いてみる。上手にできたみたい、
高井は気づかない。ペンには、高井
の名が刻まれていた。
それを、嬉しそうに両手で持って、
目の前まで持ち上げたところで、
高井はようやく、気がついた。
「どうした? 嬉しそうな顔をして、
その、ペンが、そんなに、
気になるのか?
あ~?それが、欲しいのか?」
高井は、いつもよりも、口数が多かった。
でも、茉由の気持ちも分かっていた。
茉由は黙ったまま肯く。少し、
すがるような目をしてみる。
高井は、茉由から、ペンをゆっくり
取り上げると、茉由と向かい合い、
茉由のスーツの胸ポケットに差し込んだ。
そして、そのまま、茉由の肩を引き寄せ、
優しくkissをした。
山下公園から出た、横断歩道の信号待ち
の間、
二人の唇はずっと離れなかった。
茉由は初めて瞼を閉じないで、
長いkissをした。
夜でも、ここは明るかった。
観光地のここは、開放的で、
そんな二人を誰も観てはいない。
茉由は高井にドキドキしたのも
初めてだった。
茉由は、高井を、ずっと、
見ていたかった。
信号が変わりそうになると、
周囲の人の群れの動く様は
急に早くなる。
気づいた高井は、茉由の手を引き、
急いで横断歩道を通り過ぎた。
二人は日本で一番大きな中華街、
横濱中華街へと入っていった。
高井は、店を決めていたのか、
ブラブラと、散歩気分で、
あちらこちらの店へ
寄り道しながらも、
目的地へ進んでいる様だった。
茉由は、神奈川県出身だが、実は、
意外にも、
中華街へはあまり来たことがない。
興味が全くなかったわけではないし、
中華料理が苦手なわけでもない。
元々、賑やかすぎるところは苦手
だったし、
病気になってからは、夫に、大勢の
人が集まる場所にはいかない様にと、
強く制限されていたからだった。
だから、今も、少し、警戒している。
山下公園から真っ直ぐに進んで、
東の大きな門をくぐっての中華街の大通りは、
観光客も、地元の人も入り交じり、多くの人
で今日もごった返していた。
長身の茉由でも、
高井に確りくっ付いていないと、
ぶつかって、はじかれそうだった。
茉由は怖がった。高井の腕にすがり付き
背中に隠れた。
「なんで、そんなに、
怖がっているんだ?」
高井は不思議そうだった。子供でもない
茉由が、また、変わった行動をとって
いると、高井はおかしくなった。
茉由は、病気の事を誰にも言っては
いなかった。同期にも、高井にも、
だから、茉由が何に脅えているのかが、
高井にも分からない。
でも、茉由の表情は真剣で、いつも、
見せる天然の、
とぼけたことではなさそうだった。
高井は、それを問いたださない。
今、一度、聞いてみたことであったし、
それでも、茉由が答えなければ、
きっと、云いたくはない、こと
なのだろうと判断した。
高井は物分かりが良い。
それでも、茉由は楽しい。最近は、
外で遊ぶこともなかったし、
こんな賑やかなところも
久しぶりだった。
中華街は、派手な街並み、
賑やかな店が並ぶ。
訪れたのが、夜で善かった、
この時間の
中華街は本当に初めてだった。
めずらしい装飾の照明も綺麗だった。
昼よりも、異国ムードがゼンゼン強く
なっている。
茉由は、ウキウキしてきた。
高井はやはり、店を決めていた。
「翡翠色をしたチャーハン」、
これを、食べに来た。
茉由は、躰に優しいものを好むのも、
高井は知っている。
味の濃いものや、スパイスの刺激が強すぎ
るものは、茉由は、好まない。
高井は、よく考えている。この翡翠色は、
ほうれん草の色、
きっと、茉由が好む、ものだと思った。
この店は、中華街大通りではないから、
東の門から入って、すぐに曲がり、
また、曲がって通りに入り、真ん中辺に、
在った。
通りを曲がるごとに、高井は、
茉由の位置を確かめ、
人にぶつからないように、する。
茉由を怖がらせない。
この二人は、二人とも長身なのだから、
周りからすると、
大きくて、反対に邪魔な方かもしれ
ないのに。
高井は、人とすれ違うたび、大袈裟に
茉由をかばうように抱きしめる、
高井は、それも、楽しかった。
これも知られたこと、お化け屋敷に
一緒に入ったり、つり橋を一緒に
渡ったり、ジェットコースターに
一緒に乗ったりするときに、
効果がある様に、
これは予想外に、ここでも、
大勢の人を怖がる茉由には、
良い感じだった。
目的の店に向かう、まだ途中。
茉由を何度も抱きしめながら、
高井はもう、すっかりリラックスした、
ニヤケた顔をしていた。とても珍しい。
この貌を、茉由は観たら良いのに、
残念にも、そんな余裕は、いまはない。
何ともおめでたい二人、少し前まで、
あんなに、お互い、いがみ合って
いたのに、
巻き込まれた、人たちは、いい迷惑だ。
まぁ、今、この二人がここで、
じゃれ合っているなんて、
誰も知らないことなのかもしれないが。
この様子を、もし見たら、さぞかし、
穏やかではいられない。
絶対に、絶交する。
茉由は、もう、咲と梨沙の事を
忘れている。
高井も、佐々木の事を、全く
疑っていない。
高井は、あれから何度も、佐々木の、
今の、仕事場にも寄っている。それは、
高井の、エリアマネージャーの、
仕事だから。
そこでの、佐々木には、茉由の影は、
全くなかった。
そうやって、高井は、茉由から
聴かなくても、ちゃんと確かめていた。
茉由が心配しなくても、同期想いの
佐々木がしたことだと、高井は、
分かっていた。
あれ以来、茉由は、佐々木への連絡を
控えたため、茉由の方からも、
ゼンゼン佐々木の影も感じられなかった。
失言のあった佐々木は、高井に目を
つけられずに、命拾いをしたようだ。
だが、佐々木が勘違いをし、今回、
大丈夫だったことを確信し、もし、
また、佐々木が、ストレートに、
高井に暴言を吐けば、次は、無事、
なんてことは、ない。
店に入ると、綺麗な色のチャーハンを
見た茉由は、やはり、子供のように
喜んだ。本当に、素直な、単純な、
純粋な茉由だ。
茉由は、家の中で、茉由の母の愛情
たっぷりの料理を毎日食べさせて
もらっているので、料理はしていない。
この、緑色をどうやって出しているの
かも分からなかったし、ほうれん草の
事を教えてもらっても、あんな、
葉っぱから、この、サラッとした、
舌触りの良いスープのような、ソース
のようなものが、なぜできるのかも
分からない。
菜食主義の食生活の茉由には、とても、
新鮮な驚きだった。茉由は本当に喜ん
だし、高井はその様子に満足していた。
これで、高井は、茉由を今日、何回、
喜ばせただろう、
今日は、茉由の、本社マナー研修で、
高井は、亜弥と高井の、結婚式を茉由
に見せつけたように、茉由の周りでも、
茉由の同職の者に、
茉由を「自分の特別な者」と知らしめた。
この時、抜け目ない高井は、亜弥との
結婚式?の時のメンバーと、
茉由の研修の時のメンバーが、
全く違う者であったことも、
ちゃんと、確認して行動を起こしている。
もし、その同じメンバーがいたら、
女は、男より、伝播、伝達能力も優れて
いるのだから、
亜弥にも伝わってしまうかもしれない。
それは、たいそう面倒になることも
分かっている。
そして、マナー研修後は、茉由を
待っていた、咲と梨沙との間に入り、
茉由を強引に引き離し、
「嫌な思いをさせた後」、
茉由を自分よりも先に、一人で、
車の中へちゃんと、入るようにし、
茉由が、自分一人で気づくように、
車の、助手席に、花束を置いておく。
「一人で」を強調し、
あのマンションギャラリーで、
チャント、我慢して、
亜弥にも賛辞を贈ることができた、
一人で、頑張ったと、褒美を与える。
そして、「横浜」、
これも、茉由に馴染みのある場所だと、
高井だって分かっている。
けれど、前回、高井が考えた、夜景を
楽しむドライブでは、
茉由は、全く、
気づくことができなかった。
だから、茉由を楽しませるのには、
茉由に、分かりやすいところに、
出かけなければならない、
と高井は考えた。今回は、みごとに、
茉由は、喜びを表現している。
「さて、上手くいったのならば、
もう少し、喜ばせて、やろう」
などと、今、高井は、考えている
かもしれない。
茉由は今まで、常に周囲に守られ
生きてきた。病気に対する茉由の頑張
りを切り離すと、頑張っているようでも、
一人で頑張ったことは少ない。
学生中に先輩だった夫と出会い、
スグに結婚し、社会人になってからも、
茉由の母とは離れず、子供もすぐに
できた。
梨沙の一人暮らしを羨ましがった
ように、一人暮らしもしたこともない。
しかも、母以外は、身近な人間も、
男ばかりで、しっかり守られて、
ノホホンと、子供のまま、生きてきて
しまった。
茉由は今、同期の咲や梨沙を新鮮
に感じているほど、
今までは親しい女性はいなかった。
だから、こんな、
「どうしようもない男」にすがる、
茉由になってしまったのだろうか。
男性経験も少ない茉由は、
嫌な夫から
逃げ出しているつもりでも、また、
強い高井と一緒にいる。ここでも、
さっきから、あまり自分で喋らない
ように、
結局、すべて、高井に任せている。
茉由は、男に依存する。
あんなに高井に虐げられても、
高井とは離れなかった。
あんなに夫から制裁を受けても、
まだ、離婚はしていない。
茉由は、
高井と離れられないと、気づいたのか、
夫と離婚できないと、気づいたの
だろうか、
今日も、この高井のせいで、
咲と梨沙は、
今、大変な思いをしているのに、
茉由は、咲と梨沙を忘れてしまうの
だろうか、
高井が、咲と梨沙にダメージを与え、
茉由から、遠ざけたことを、
どこまで、分かっているのだろうか。
だから、今日は、高井の機嫌が良いのに、
ここでは、二人でとても楽しんでいる。
高井は、咲と梨沙が沈んだことを、
知っているのに、
茉由に知らせることなく、こんなに
ふざけた様子で、楽しんでいる。
―
「ねぇ、梨沙? 私、一人暮らし、
したことないから、羨ましい。
また、
泊りに来ても良い? あつ、
3人だと楽しいと思うけど!」
「うん、良いよ、何か、クイモン、
もってきてくれるなら!」
「分かった!」
「そうね! 梨沙は肉でしょ?
茉由はサラダだっけ?」 ―
あんなに、楽しそうだったのに。
茉由には
もう、そんな日は、こない。
高井にとって、茉由は……、
今日、
高井が茉由に渡した、花束の真紅のリボン、
先日、
高井が亜弥に渡した、花束のブルーのリボン、
それぞれに、本当は、深い、意味がある。
茉由は、それも、まだ、分かってはいない。
真紅のリボンの意味することは、茉由には、
今よりも、もっと、
苦しむ境遇になることを、高井が、
知らせているのに。
茉由は、全く、その事を高井には
尋ねない。
たぶん、鈍感だから、亜弥のリボンの色
と違うことにも、
気づいていないのかもしれない。
高井は、亜弥には青い色が意味する
ように、
茉由には、真紅の色が意味するように
しようとしている。
今日は、二人で共に、
はしゃいでいるが、
高井は、この、嬉しそうに、
高井に甘える茉由が好きなのか、
辛そうな、何かに耐える、堪える、
茉由が好きなのか、
何を観たくて、高井はそうしている
のだろう。
高井は、茉由が嫌がる、大通りへ、
茉由を引きずっていく。茉由は、
緊張しながら、強張った表情で高井
の後ろに隠れながら進んでいる。
せっかく、こんなに、賑やかな、
楽しそうな店々が、並んでいるのに、
その様子は観ていない。
高井は、一軒の店の中に入る。
茉由もくっ付いている。高井はそこで、
パンダの顔をした、中華饅頭を
購入した。
茉由に見せずに、車に持ち帰る。
街外れの駐車場は、中華街の
賑やかさとは、正反対。
人も少なく、かなり、静か。
中華街はザワザワ感が凄かったので、
ここでの静寂は強められている。
茉由はようやく落ち着いてきた。
高井は、パンダを紙袋から出し
茉由に渡す。
茉由は、今日、一番の笑顔をみせた。
茉由は、アニマル好きでもある。
これも、前回のドライブで、
高井は気づいた。
高井は、茉由の事を、
勝手に、
決めてしまう……
「良くできました」
今日の茉由の一日は、
管理と放置、制限と解放、狭と広、
暗と明、動と静、抑圧と…、
高井は、悪いことを…、 の後に…、
嫌なことを…、 の後に…、
などと、
単純なことを、単純な茉由にしている。
高井には、全く、難しいことではない。
茉由は、
ちゃんと、
子どもたちのところに、
戻れるのだろうか、
2人の子供の、
母として、だけ、……
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