プロローグ

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プロローグ

 じっとりと汗をかいていた。  ある意味で晴れがましい席にいるし、周りの多くのものは微笑み、舌鼓を打ち、朗らかに会話を楽しんでいる。  しかし、中には婉曲な言い回しで、あるいは微妙な話題の選択によって、冷たい油を背中に一筋流すような嫌がらせを仕掛けてくるものもいる。  そもそもの始まりは、たいしたことではなかった。  つまらない会話の中に出てきた一言。  思い過ごしだと思っていた。  思いもかけない出来事が起きることはある。奇遇ですね、まさかこんなところでお会いするとは、というやつだ。  もう記憶の彼方になってしまった出会いや出来事。  今になって誰がそんなことを……。  しかし、不思議な出会いが度重なるにつれ、最初に感じた小さな違和感は軽い不快な感触に変化し、今や嫌悪にまで至っていた。  それでもポジティブに日々を送り、傍目にはなんら変わったところなく、この日を迎えたはずだった。  今日、彼らが一堂に会していると考えるだけで、耳鳴りが聞こえそうな気になる。  いや、実際に耳鳴りがしていた。  冷たいトカゲが耳道に頭を突っ込み、舌をちょろりと鼓膜に届かせているような恐怖とともに。  今にも意識が吹き飛ぶのではないか、というようなざわついた感触を伴って。  とはいえ、常にそんな想念に囚われているわけではない。  妄想もここらあたりで押しとどめておかないと、とも承知している。  しかも、この負の感情はまだまだ小さいものだ。  広い無限の意識の中に転がり込んできたちっぽけな砂のひと粒。  そんなものだ。  気にする方がどうかしている。  会場では、人々がそれぞれのキャラクターや才能をフルに発揮して、互いに親交を作り、絡め合い、確かめ合っている。  ワインやケーキやすばらしい料理の数々が豊かな空間を彩り、楽しそうな顔を更にほころばせている。  さあ、妄想を捨てるのだ。  また人の輪に入っていこう……。  しかし、あえてそのように意識しなくてはいけないことが、この企画がとんでもない結末を迎えることを、早々と警告していたのかもしれない。  事態は恐れていた方向に突き進んでいた。  ああ、またあの話だ。  どうしてこうも……。  なぜなのだ。  メッセージ?  どんな意図の?  まさか、  まさか、まさか。  もしかすると?  あいつも、こいつも。  そもそも、なぜこれだけ同じようなやつが集まったのだ。  あてつけのように。  そうか、あてつけ?  果たして!!  こいつがささやきかけてきた。  思わせぶりな目配せまでして!  嫌な音が鳴り続けていた。  もうこれは耳鳴りでもなんでもない!  じっとりとした汗は、背中だけでなく、腋の下や胸を濡らしている。  外は横殴りの雨。  激しい雨音。  にもかかわらず、聞こえ続けている音!  人々が行きかう。  音、音楽、車の音、せせらぎ、波の音、列車の轟音、ディスコミュージック、靴音、そんな音、音、音。  そしてあの歌!  話す、話す、しゃべる、そして静寂の話……。  ラの音でチューニング。  酒、ピザ、プリン、夕焼け、プール、インテリア、ジャグジー、ブログ、インタビュー、海の家……。  そんな話はもう……。  めまいがした。  立っていることさえ苦しい。それでも立ち続けている。  そうしなくてはならないから。  弱さを見せてはいけない。  見透かされてはいけない。  しかし、ますます「音」の刃は鋭利になり、心の奥底に隠された弱点に焦点を絞って、キリキリと切っ先を突きつけてくる。  いつしか膨張しきった嫌悪感。  いや、もう憎悪だ!  敵意だ!  かろうじて薄皮に包まれてはいるが、すでに赤い雫が滴り始めている。  黒く膨れ上がったその塊に、音の刃が迫っている!  十分前より一分前の方が、なにかがより正確に近づいている。  ああ、まだ一分しか経っていない!  しかし、まだだ。  まだ大丈夫だ。  苦痛に身をよじっている場合ではない。  こわばった笑顔を振りほどき、愛される笑顔を取り戻せ!  女性にはケーキを、男性にはスコッチを!  そうだ。  自分のこの強烈な意思の力に、まずは乾杯だ。  そして、膨れ上がった黒い塊に刃が触れずに済むことを祈って、乾杯だ!  音はますますその力を誇示し始めていた。  その刃は、まさに憎悪の塊に触れんとしていた。  そのときだった。  唐突にそれは起きた。  あの呪われた忌まわしき名が語られるときが来たのだった。  そして、あの女の台詞。  刃が薄皮を突き破った瞬間を感じた。  己の体の中に、赤黒いなにかが大量にほとばしった。  胸が急に冷たくなった。  今の今まで苦しめられてきたあの音が、すっと聞こえなくなった。  身が軽くなった。  自然な笑みがこぼれた。  ぼやけかけていた人の顔が眼底に像を結び、まとまりのある思考が戻ってきた。  実行するときが来た。  漠然とした恐れが、確信に変わった。
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