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3 マチ付き茶封筒
台風一過、大阪市内は久しぶりに秋らしい澄み切った青空。
瀬謡佐知子はいつもどおり開店準備を整えると、コの字型になったカウンターの内側で丸椅子に座り、携帯電話を取り出した。
背後の厨房では、夫が人気メニューの「今日のご飯」である蛸飯を作っている。
「少し足りないかもしれんなあ」
「今日のご飯」とは余った食材を使って、ご飯ものを日替わりで作っているものだ。都心のオフィス街から微妙に外れたこの一角には、賃貸マンションもポツポツと見られ、単身赴任の勤め人などが住んでいる。
ここの晩飯は旨いと、若い客の中には瀬謡をお母さん呼ばわりするものもいる。
一方で、瀬謡を魔女と呼ぶ男たちもいた。
立成など古参の常連客の一部がその口である。
瀬謡は背が高く、黒い服を好んで着るからというのが彼らの言い分だが、真の理由を瀬謡は知らない。
「余るよりいいさ」
「そうやな。しかし、なんだな。伊知さん、どうしたんやろなぁ」
瀬謡も数日前から気になって仕方がなかった。
「ほんとに馨ってやつは」
友人の伊知馨。
娘の結婚披露宴に来てくれる約束になっていたのだが。
「台風で飛行機が欠航したんかな」
夫が何度も同じことをいう。
北海道では一泊するだけ、ということだった。
披露宴は九月四日の午後。
台風が日本列島を襲ったので心配はしていたのだが、日本海に抜けてから熱帯低気圧に変わり、飛行機は無事に飛んだはず。
ところが馨は姿を見せなかった。
予定通り三日夜に帰阪しなかったのだろうか。
無断欠席の上、事後連絡もくれないし。
今日はもう八日。
まさか忘れて……、そんなことはないはずだけど。
瀬謡は、心に浮かんだ小さな怒りと胸騒ぎを押し込めると、再び店内に眼をやった。
ステンレスのおでん鍋からは薄い湯気が上がっている。
湯温が高くなりすぎてはいないかと、小さな温度計に目を凝らす。
カウンターにはメザシやポテトサラダなどを盛り付けた大皿が並んでいる。
そんな定番メニューに加えて、今日はマグロのカルパッチョを用意しておいた。サッパリした口当たりのものが欲しいという客の要望に応えてのものだ。
その皿が目に付きやすいようレイアウトを変えてみる。
天井に吊られたテレビからは甲子園のプロ野球中継が始まっていた。
「なんだ、いきなり一回の表に二点も取られてるよ。エースが頼りないとダメだね」
瀬謡は再び丸椅子に腰掛けると、バッグから数枚の名刺を取り出した。
小さい字だね、とブツクサ言いながら老眼鏡をかけ、メールアドレスを打ち込んでいった。
まずは立成さん。
初めてのメールです。
驚いた?
パーティではお疲れさま。
おかげさまでとても楽しいひとときを過ごすことができました。ありがとうございました。
また近々、お顔を見せてくださいね。
取り急ぎ御礼まで。
すみよし・瀬謡佐知子
追伸 魔女の宅急便、一日の午前中に滞りなく届けまして候。
で、ご首尾はいかが?
立成はパーティの司会者であって主催者でないが、こういうメールを送られてうれしくない人はいないだろう。
魔女の宅急便とは、わけがある。
十日ほど前、立成から妙なことを頼まれていた。
瀬謡の友人、伊知馨に届けて欲しいものがあるというのだった。
「六十男が五十半ばの中年女に贈り物かい?」
そういって瀬謡は茶化したが、立成はいつになく慎重だった。
じゃかましい!とカウンター越しに睨みつけてきそうなものだが、なんとなく不安そうな目で瀬謡の反応を確かめていた。
立成は五年ほど前に妻を亡くしている。
子はない。やもめ暮らしだ。
伊知馨は瀬謡の二十数年来の友人で、夫とは別居中。
こちらもひとり暮らし……たぶん。
立成の頼みはプライベートなことに違いない。
いつの間にふたりは……。
「自分で直接渡しゃ、いいだろ」
「住所も連絡先も知らん。やってくれるんか、くれんのか」
「ふん」
とはいったものの、届けてやろうかという気持ちが顔に出ていたのだろう。
「詳しいことは聞くな。詮索厳禁や」
と、立成が注意事項を述べたてる。
「なんだよ。他人にものを頼んでおいて」
「わしはこの日のために、ここに通い詰めてきたんや!」
「はあ? そうだったのかい。そりゃ、おあいにくさま。あたしは、そんな無責任な役割はごめんだよ」
「なんやと! なんの責任や」
「そりゃそうさ。馨を不幸に陥れるようなことはできないね」
「わしが不幸を、ってか!」
「違うのかい? じゃ、なんなんだよ」
「けっ、やっぱり、あんたじゃ、あかんか」
「ふう! 埒があかないね」
というような問答を繰り返しながら、瀬謡は立成の頼みを聞いてやることにしたのだった。
客のひとりとして立成と付き合っていたが、信頼できる男であることはわかっていた。
ガラは悪いし、あのごつい顔だ。
本気で恐ろしいと思ったこともあるが、一方で頼りになる男でもあった。
渡されたものは、なにも書かれていないマチつきのA4茶封筒ひとつ。
ガムテープで封をしてある。色気もそっけもない。
中には大きさ数センチのコロリとした箱が入っているようだった。
「中身は? 聞いても無駄か」
「聞くなと言っとるだろうが」
「指輪かな」
立成が凄みのある目で睨みつけてくる。
「ブローチ、あ、香水。そだ! チョコレート!」
「うるさい! なにも詮索するな。先方に渡してからもや。ええか、それから、このことを誰にも話すな。この店の中でも外でもや。きれいさっぱり忘れるんや」
「はいはい。やたら注文が多いね」
「向こうには、わしからや、と言うな。知り合いから頼まれたとでも言ってくれ」
「そんなものは受け取れない、と返されたら?」
「だからこそ、魔女の瀬謡さん、あんたに頼むんや。なんとか受け取ってもらってくれ」
「あんたの脳みそは、つくづく都合よくできているんだねぇ」
その立成からの届け物を、パーティの日の午前中に、伊知馨に手渡したことを報告する意味で、魔女の宅急便のくだりを記したのだった。
で、結局、あれはいったいどういうことだったのだろう。
立成も立成だが、馨も馨だ。
これっぽちも話しやしない。
どいつもこいつも何を考えているんだか。
いつのまにか瀬謡の口から、愚痴が言葉となって出ていた。
「やれやれ。さ、次はっと」
声に出して、気持ちを切り替える。
「それにしても芳川さんに、すぐにメールを出しそびれたのは不覚だったねぇ」
厨房では、すべての下ごしらえが終わったのだろう。夫が鍋を洗う音が聞こえてくる。
「ええやないか。向こうから電話をくれたんやから」
「そうだね。やっぱり週末も営業していてよかったわ」
先週は娘の結婚式があり、あわただしかったせいでパーティの主催者、芳川への礼のメールを出しそびれてしまっていた。
ところがまんの悪いことに、結婚式のあった四日の夜、芳川の方から予約の電話が入ってきたのだった。
いつもは予約など入れてくる客ではないが、商談相手を連れて来ようとしているのだろう。
九月十日に四人ということだった。
「ありがたいね。うちの店も、あんな立派な先生の接待場所として使われるようになったんだね」
瀬謡は弾んだ声を出した。
神棚に向かって拍手を打ち、
「暖簾、出すよ」と、立ち上がった。
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