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次の手紙を出す口実も、外出の口実もなく、皇帝の生誕祝賀祭の前日を迎えた。
樹の国には、望んだことではないが、世話にもなっているし、周りからも好意的に扱われている。
ここまで来て流石に、皇宮に上がる前に渡津依のところへ逃げ出す訳にもいかないという気持ちになっていた。
莉堵としても、渡津依の気持ちが取り敢えずでもこちらに向いていることを知って、心に余裕が出来たのかもしれない。
それでも、皇宮に上がるという事実には気後れもするし、心配事は尽きない。
この屋敷に来てから烝榴宜に言われたこととして、莉堵はあくまでも氷刃を手懐けた地の国の姫として皇帝に共に献上される。
だから、初めから皇帝の妃候補として後宮に入ることが決まっている訳ではない。
だが、莉堵が地の国の年頃の姫であることを考えれば、自動的に後宮に入ることになるだろうと言われた。
因みに、この件に関して莉堵の父である地の国の国主 愉莝冶は、積極的な何かをすることはないという。
愉莝冶は、埜州示に全てを任せて、烝榴宜に挨拶すらなかったのだそうだ。
愉莝冶が何を考えているのかは分からない。
渡津依に莉堵との離縁を伝えたのかどうかすら分からない。
渡津依は海の国の元締めという代表者だそうだが、国主ではない。
恐らく、愉莝冶や他の国の国主達からは、格下に見られているのだろう。
万一皇帝が莉堵を気に入って、後宮に妃として迎えることになったとしても、渡津依に嫁にやった事実など無かったことにしてしまうつもりなのかもしれない。
ならば逆に、莉堵が上手く皇宮を出ることが出来さえすれば、莉堵が渡津依の元に戻ろうが、愉莝冶はそれ以上の干渉はしないだろう。
雨の降り始めた庭に莉堵は目を向ける。
秋の終わりの冷たい雨は、降る毎に季節を進めて寒さを運んでくる。
それでも今は、不安と寂しさを無理矢理でも先への希望に変えて行かなければならない。
同じ都の同じ皇宮に向かう莉堵と渡津依が、ほんの一瞬でもすれ違う機会があるのかどうかも分からない。
でも、皇宮から出るなら、それは莉堵が望んでそれを許されたという経緯でなければ、渡津依を追い込むことになってしまう。
難しいことだというのは、想像出来る。
莉堵は、政治には明るくないし、海の国の元締めという立場がどういうものなのかも分からない。
だから、せめて自分のことは自分で何とかしたいと思う。
雨の音の中に、静かに異音が混じることに気付いて目を上げると、庭を滑るように何かが近付いてくる。
雨の所為で庭には人影がなく、今莉堵の側には偶然にも誰もいない。
莉堵は少しだけ下がって身構えるように待った。
「莉堵様。」
小さな声の呼び掛けと共に、雨で出来た水溜りの中から人影が浮かび上がってくる。
青っぽい髪に水を滴らせた整った顔立ちの少年、維矢留だ。
莉堵は驚いて目を見開いてから、辺りを見回す。
まだ、側には誰もいない。
「維矢留。どうしてここに?」
潜めた声で問い掛けると、維矢留はにこりと笑った。
「良かった。今日は莉堵様は泣いてないね。」
その言葉に、胸が詰まるような気がした。
だが、それよりも維矢留の現れ方に心配になる。
「こんなところに来て、大丈夫なの? 都は維矢留にとって危ない場所ではないの?」
人ではない者を除けると言われている都だが、海の仙人に当たる海竜には悪影響はないのだろうか。
「確かにここには、人の要になる者が住んでいて、その守りの為に、様々な力が働いているみたいだね。」
そう言う維矢留の口調は軽いので、大したことはないのだろうかと思ってしまうが、維矢留が普通の現れ方をしなかった時点で、やはりいつもとは勝手が違うのだろう。
「どこもかしこも、入り口に仕掛けがあるみたいだね。今日は水を渡ってここに入り込めたけど、そういう条件が何かないと難しいかもしれない。」
そう正直に答えた維矢留に、莉堵はやはり心配になる。
「私のことを心配して来てくれたのね。・・・でも、それなら大丈夫。」
微妙な顔になっている維矢留に言葉を重ねる。
「渡津依様とはまだ会えてないけど、短いお手紙を貰ったの。話し合って確認しなければいけないこともあると思うけど。取り戻したいって書いてくれたわ。だから、なるべく早く皇宮を出られるように努力するから、待ってて下さいって伝えたいと思っているところなの。」
本音を語った莉堵に、維矢留は何か面白く無さそうな顔になった。
「まどろっこしいな。あいつもさっさと拐って連れて帰ってしまえばいいのに。いつまで莉堵様をこんなところに置いておくつもりなんだか。」
不満そうに言い募る維矢留は、まるで渡津依と会ったことがあるような言い草だ。
首を傾げて見つめる莉堵の視線の先で、維矢留がふうと溜息を吐いた。
「僕は今、あいつのところにいるからね。あいつが莉堵様を取り返すまで、手を貸すって決めたから。」
莉堵はまた目を見開く。
「渡津依様に、会ったの?」
震えそうになる声で問い返すと、維矢留はまた不満顔になった。
「僕が取り戻して海の底に連れて行くのは、莉堵様は喜ばないなら。一度はあいつの所に戻るのを手伝って、それから割り込むことにしたから。」
拳を握る維矢留に、ほろ苦い笑みを浮かべておくことにする。
「という訳で、紅珊瑚の櫛を身に付けておいて欲しいんだ。皇宮で莉堵様に何かあった時に、僕が助けに入れるように。僕の鰭飾りを水に浸ければ、そこへ出られるから。」
維矢留は真面目な顔に戻ってそう言うと、すっと手を伸ばして、莉堵の両手を包み込んだ。
「凄く悔しいけど、あいつは莉堵様のことを本気で想ってるよ。それから、自分が纏めてる海の国のことも。だから、莉堵様があいつのところに居たいなら、しばらくは預けておいても良いかなって思った。・・・それだけ。」
維矢留はぽつりとそう言うと、莉堵の手を離して踵を返した。
「櫛は、あいつが皇宮に持って入るから、中で受け取って。」
言い残すと、莉堵の見つめる中、維矢留はまた水溜りの中に溶けるように消えた。
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