第1章 松葉

5/5
前へ
/53ページ
次へ
皇帝の生誕祝賀会の朝は、前日の雨が嘘のように綺麗な朝日が上る晴天になった。 早めの時間に獣舎に行った莉堵は、氷刃の檻に入ってしっかり構ってやってから、身支度を整えに部屋に戻った。 艿音達の渾身の一作というように仕上げられた莉堵は、生まれてから一番の重みを纏って窮屈に飾り立てられた。 化粧も念入りに施されたが、氷刃を気遣って、香の匂い等は控えめに仕上げられた。 都の屋敷に滞在する内に様子の落ち着いて来た氷刃は、予定通り莉堵と同じ馬車に檻無しで乗り込み、皇宮へ入る。 皇帝への献上の際は、莉堵が氷刃を連れて歩くが、後方を万一の為に伸座究が従うことになっている。 皇帝へのその他の細々とした献上品が用意され、捧げ持つ者の配置が行われると共に、莉堵や氷刃の荷物が荷車に用意される。 莉堵と氷刃が馬車に乗り込むのは、その全てが済んでから、馬に乗る烝榴宜(むるぎ)と同時に、一番最後ということになっていた。 支度の整った莉堵は、艿音を伴って獣舎に向かう。 と、こちらもきちんと身なりを整えた伸座究が緊張した面持ちで待ち受けていた。 念の為に手に持つ鞭も鎖も、飾りの付いた特別仕様の物になっている。 「いよいよですね。」 声を掛けてきた伸座究は、緊張して強張った顔になっていた。 「ええ。氷刃が皇帝陛下に気に入って頂けると良いわね。」 莉堵はその緊張を解すように微笑んでみせた。 それに伸座究も、少し固い表情ながらも小さく微笑み返してから、頷いた。 呼びに来た兵士達に従って、氷刃を檻から出すと、莉堵は氷刃に寄り添って屋敷の表に向かう。 不安そうな氷刃の頭を撫でて宥めてから、一緒に馬車に乗り込んだ。 莉堵が座ると、氷刃はその足を包むように横になって寝そべる。 その久しぶりの感じに、莉堵は微笑んで氷刃の頭を撫でた。 進み出した馬車の窓から覗く都の様子は、朝から活気があって人々の往来が多い。 特に今は各国の国主達が一堂に会す5年に一度の祝典の期間で、余計にそうなのかもしれない。 「氷刃、私が付いているから、落ち着いて行こうね。」 頭を撫でながら優しく言い聞かせると、氷刃は嬉しそうに甘え鳴きした。 莉堵としても、初めて上る皇宮に不安も沢山あるが、氷刃にその不安が移ってしまわないように、落ち着いて行こうと心に決めた。 ゆっくりと進んだ馬車は、皇宮の門を潜って、車寄せに着けられる。 身分の高い者は、そこからそのまま一段上がった内回廊を進むことになる。 国主やその家族ならば、間違いなくそちらを進むことになるが、氷刃を連れた莉堵はどういう扱いになるのか分からない。 取り敢えず、氷刃を連れて馬車から降り立った莉堵に、その場に居た樹の国の者以外から騒めきが起こる。 続々と到着している各国の者達が居合わせているのだろう。 莉堵は氷刃を宥めるように撫でながら、周りを見渡す。 各国の要人達が側仕えに傅かれながら、徐々に宮殿の奥へ移動していく。 中には、後宮に上がる予定なのか、着飾って扇で顔を隠したような若い女性も居る。 「莉堵様。こちらでございます。」 艿音に声を掛けられて、莉堵は烝榴宜のいる方へ向かう。 今日の莉堵の装いは、緋色の衣に薄紅色の上衣を重ねて、髪の一部を結い上げて櫛やら簪が幾つも挿さっている。 扇は胸元に笛と共に挿して、手は氷刃に常に触れている状態にする。 そうすると、氷刃が落ち着くようなのだ。 触れた氷刃の身体から、少し速くなった鼓動を感じる。 人が入り乱れるこういう場所はきっと氷刃も落ち着かないのだろう。 莉堵と一緒に移動する氷刃に気付いた人々が騒ぐ声も、氷刃には不快なものであるに違いない。 軽く背中を叩いて宥めながら烝榴宜の元まで辿り着いたところで、また新しい到着者が来て、人数の多そうなその団体と進路がかち合うことになる。 どちらが先に行くかというところで、その集団の先頭に近い辺りに、前日見た髪色の薄い異国の若者がいる事に気付いた。 ということは、あれは海の国の者達ということになり、あの後続に渡津依が居る。 莉堵の心臓がどきりと跳ねた。 と、そこへ兄の埜州示(のすじ)が近付いてくる。 「何を海の国ごときが。」 不満そうに漏らした埜州示の声は海の国側にも丸聞こえで、あちらが気色ばんだ様子になる。 揉め事が起こりそうな気配に、居てもたっても居られなくなって、莉堵は氷刃を促してぱっと前に出る。 驚く樹の国の者達と、鎖にも繋がれていない氷刃を連れて出た莉堵に驚く海の国の者達の傍を通って、回廊の先に足を踏み入れながら、ちらりと振り返って、こちらを向く薄い髪色の若者に目を向ける。 「前日は譲って差し上げましたから、今日はこちらがお先に失礼致しますわね。この子が待てませんの。」 そう柔らかに口にして微笑むと、海の国の者達が目を見開いて顔を赤くした。 「烝榴宜様、海の国の方達が快く譲って下さいましたから、お先に参りましょう?」 莉堵が促すと、小さく溜息を吐いた烝榴宜がこちらに歩いてきた。 烝榴宜を先頭に移動し出した樹の国の集団の中程まで待ってから、莉堵も進み出す。 ふと視線を感じたような気がして、ちらりと振り返ると、先頭まで出てきた様子の渡津依がこちらを穏やかな顔で見ている。 後ろ髪を引かれるような気になりながら、莉堵は微かに微笑んでから前を向いた。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

94人が本棚に入れています
本棚に追加