6人が本棚に入れています
本棚に追加
薄紅色の桜のつぼみが、風に揺れている。
一面に菜の花が咲く河川敷で、俺は脚立に座って桜の木を見上げていた。先祖代々大切に守ってきた古木の手入れを手伝うようになって三年、まだ一度も花が芽吹いたことはない。
中学の卒業式を明日に控え、今年こそはと思う。難病で年は越せないと言われた母さんのためにも、どうしても咲かせたい――
「シオウさんの具合はどうかね」
じいちゃんが土手を下りてきた。八十になっても身のこなしは軽く、俺に育て方の手ほどきをしてくれている。
「見てこれ、明日には開くかな」
「おお、なかなか。今年は満開になるやもしれんな」
じいちゃんは後ろに下がって桜全体を見上げた。俺は脚立に座ったまま、枝の中から木を見上げる。若い柔らかな葉の影に今にも開きそうな花芽がいくつも見える。
「おじいさん、蓮を呼んできてと言うたのに、あんたまで桜の世話をしてどうするの!」
割烹着のばあちゃんがお玉を持ったまま土手の上で叫んだ。じいちゃんは「しまったわい」と大木のうしろに隠れる。ばあちゃんはあきれ顔で桜を見下ろす。
「今年こそシオウさんは咲くかねえ」
「だといいんだけど」
俺は脚立から飛び降りてふり返った。樹齢四百年、永くこの土地を守ってきたシオウザクラが朝日を浴びてきらめいている。
枝葉のすき間から見えた空が少し曇り始めた。空気の匂いをかいで一雨きそうだなと思う。
数年前の台風による塩害もあってか、葉はつくものの三年連続で開花しなかった。雨は大地の恵み。浄化の作用もあるけれど、一方で春の嵐は花芽を吹き飛ばす脅威でもある。
どうか今年は咲いてくれよと祈るような気持ちで、じいちゃんと土手を登っていった。
最初のコメントを投稿しよう!