最後の団欒

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「凄いなぁ、拓巳さん。」 「凄くないよ…。誠一さんだってもう少し一緒にいたら気付いていたよ。どうして?愛子…今日だってコーヒーがいいって言わなくても、ジュースで良いのに…。」 記憶がない日も「誠一さん」と呼んでいる日も週に何度かは、コーヒーが飲みたいとリクエストしている。 記憶がないなら尚の事、苦手なコーヒーを飲みたいと言うなんてと、今聞いておかなければ、明日は前の愛子に戻ってしまうかもしれない。 「だって、ジュースじゃコップに注いで終わりでしょ?拓巳さんが豆を引く作業をしてる、音とか回すとことか?好きなのよ。音を聴きながら見てるのが好きなの。コーヒーの香りもね?でも納得だなぁ。」 ため息混じりに言うので何が?と訊き返す。 「拓巳さんのコーヒー、好きなのよ、優しい味で。私が苦手だって知ってて、苦味を出さない様にしてくれてたのね?砂糖もミルクもさり気なく多め。でしょ?」 言われて、少し赤い顔で頷く。 記憶があってもなくても、伝わっていた。 愛子にはちゃんと伝わっていたんだと、涙が流れた。 「コーヒーのおかわり欲しいなぁ?」 と可愛い顔で、下から泣いた顔を覗かれて言われる。 「……う、ん。うん!持って来る。とびきり美味しいの淹れて来る!」 腕で目を擦り、カップを手に立ち上がった。 頭も然程良くはないし、スポーツにも興味はない。 運動が苦手という事もないが、好んでする程でもない。 コレと言って人に自慢出来る事はない。 誠一と比べられてしまうと、高校時代にサッカーをして運動能力があり、一流企業に入社するほど、頭も良くコミュニケーション能力も高い誠一とでは誰が見ても見劣りしてしまうといつも思っていた。 美味しいコーヒーを淹れる事…それだけが誠一に勝てる唯一だと、拓巳は考えていた。 そんな劣等感も愛子は気にしないでくれていた。 記憶のない愛子の中に、藤代拓巳がいた。 コーヒー豆を挽きながら、愛子を見る。 微笑みながらソファに座り、拓巳をじっと見ていた。 (明日、愛子はどうなっているだろう。) そんな不安の中、それでも構わないとも思える。 名前を呼ばれなくても、愛子の中にちゃんといるともう分かったから、大丈夫だと甘い香りとフルーティーな味わいが特徴のモカを使いコーヒーを淹れた。
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