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第五章 還る場所2
手鏡をのぞきこんで念入りに櫛で髪をとかしていると、ひどく警戒した気配をともなって病室の戸が開いた。
芽衣は自然に見える表情を作って、その人物を迎えた。
「繭香」
「……芽衣、よかった」
「増水した川に落ちて三日も寝てたんだって。びっくりしちゃうよね」
顔を合わせた途端に泣きそうになる繭香を見て、芽衣は何だかほっとした。
心は凪いでいる。冗談を言う余裕すらあった。
繭香を見て平常心でいられるかどうか、少し自信がなかったのだ。もしかしたら聖森の穢れにあてられたときのように、心の中が憎しみと恨みで塗りつぶされるかもしれないと危惧していたのだ。
だが、繭香を前にしても自然に笑えている。
この数日でずいぶんとやつれてしまった彼女の顔を見て、気の毒に感じる心の余裕もある。
「……佳苗にも言われたし、自分でも思ったんだけど……もし、芽衣があたしのせいで川に飛び込んだったらどうしようって……芽衣のお父さんとお母さんにも何て言ったらいいんだろうって、ずっと考えてて……」
芽衣の顔を見たらほっとしたのか、繭香はポロポロと涙を流し始めた。罪の意識に苦しんでいたのだろうかと、芽衣は可哀想に思った。
「佳苗ったら、きついね。川に飛び込んだりしないよ。本当に、病院からの帰り道に川に落ちちゃっただけなの。……心配かけたね。ごめん」
微笑んでみせると、繭香はさらに泣いた。
きっと芽衣の意識がないあいだ、自分を責めつづけていたのだろう。胸に刺さった棘のようなものに、今も苛まれているにちがいない。
たかが三日くらいでは、気持ちの整理はできないのは当然だ。
芽衣だって、マータラムで過ごした半年で様々なものに触れて憎しみや恨みと折り合いをつけることができただけで、ひとりでは無理だったはずだ。
「あのね、繭香。私ね、もう怒ってないよ」
異界の地で、芽衣は許すということを知った。
許しによって自分を、誰かを、救うことを知った。
だから、自分と繭香を救済するために、芽衣は言葉を続ける。
「眠ってるあいだに、いろいろ考えてたんだ。繭香は、友達の彼氏とかそんなの関係ないって思えちゃうほどに、裕也のことを好きになっちゃったのかなって。うんとうんと好きになっちゃったのかなって。すごく好きになった人がいて、その人の心の中に別の誰かがいるってわかっても、気持ちを止めることができないって、私にもわかるようになったんだ。……だから、繭香がそれと同じ気持ちなら、仕方ないかなって思ったの」
アラインがシャリファのことを思い続けていることを知っていた。それでも、好きになる気持ちは止められなかった。疲れていたり傷ついていたりすれば、寄り添ってなぐさめてやりたいと思ってしまうのだ。
シャリファの存在を彼の中から消したかったわけではない。
だから、繭香も略奪しようなどと思っていなかったのではないかと、芽衣は考えられるようになった。
「もう怒ってはないけど、傷ついてはいる。繭香と裕也は、やっちゃいけないことをしたって思うよ。当事者じゃなくても、佳苗みたいにこういうことが許せないって人はいて、そういう人たちからいろいろ言われるとは思う。それでもいいなら、付き合い続けたらいいんじゃないかな。……順番は間違っちゃったけど、好きならしょうがないんでしょ」
静かに、噛みしめるように言う芽衣に、涙をこぼしながら繭香は何度も何度もうなずいた。
「……好きなの。好きだったの。だから、あきらめきれなくて……ごめんなさい。芽衣のこと、嫌いとかじゃなくて……本当に、ごめんなさい。だめだってわかってたけど、それでも好きで……」
「それは、本人に言ってあげなきゃ。……裕也、目覚めた?」
「うん。芽衣が病院に運ばれた日の夜中に……言うの遅くなってごめん」
繭香のことは片づいたが、まだ問題は残されている。
「目覚めたんだね。よかった」
マータラムにいる間も棘のように胸につかえていたものが、するりと取れるのを芽衣は感じた。だが、それ以上の感情はない。ただ、ほっとしただけだ。
もっと別の感情が湧き上がるかもしれないと心配していたが、そんなことはなかった。
「今日、大部屋に移ったんだよ。部屋番号、教えるね」
「うん。……別れ話、しにいかなきゃいけないもんね」
何でもないことのように芽衣が笑えば、繭香はまた苦しそうな顔をした。
もしかしたら、芽衣が怒って罵ったほうが繭香の気持ちは楽になったのかもしれない。だが、そんなことはしたくなかったのだ。
だから芽衣は、裕也にも淡々と別れを告げにいこうと心に決めた。
***
「芽衣がわざわざ出向いてやることないのにさ」
慣れない松葉杖でふらつく芽衣の身体を横から支えながら、佳苗はすねた顔で文句を言う。
「向こうは一ヶ月以上入院すること確定だけど、私は明日には退院だもん。だから、次に学校で顔を合わせたときに、なんて言ってたらどんどん先伸ばしになっちゃう。こういうのって、さっさとすませたいでしょ?」
安心させるために、芽衣は佳苗にニッと笑ってみせた。
スマホはマータラムでなくしてしまったからか、濁流に飲まれてしまったのか、助けられたときはすでに芽衣の手元になかったらしい。だから、佳苗に連絡するのが遅くなってしまっていた。
目覚めの知らせを聞かされて急いで来てくれた彼女は、芽衣が裕也の病室に行くと言うと、快く付き添ってくれている。
「やっぱり腹は立ったし傷ついたけど、許しちゃったほうが私の気持ちが楽だったの。それに、いい大人が不倫するのはどうかと思うけど、私たちまだ子供でしょ? だから繭香と裕也が間違っちゃったのも仕方ないんじゃないかなって」
「まあ、そうだけど。芽衣、さっぱりしてるね……あんたが平気なら、あたしはそれでいいけど」
芽衣が空元気でなく本当に平気そうな様子を見て、佳苗も安心したように笑った。彼女はただ性格がきついのではなく、正義感も強い。裕也たちとのことではずいぶんやきもきさせただろうし、川に落ちたことではかなり心配かけただろう。そう思うと、こうして笑ってくれる優しさがありがたい。
「芽衣がそうやって言うんだったら、あたしが言うことはないね。当事者が許してるんだもん。だから、もしこのことで繭香のことをとやかく言う子がいたら黙らせとくわ」
「ありがとう」
佳苗が自らの正義感を暴走させる子ではなくてよかったなと、芽衣は安堵した。
もしかしたら繭香を絶対に許さず、芽衣にも怒るのではと不安だったのだ。
でも実際はそんなことはなく、ちゃんと芽衣と繭香の友達でいてくれた。そのことに、芽衣はとても救われた。
「それにしても、気持ちは決まってても、やっぱり別れ話って緊張するね」
佳苗の優しさに甘えて、芽衣はポロッと弱音を口にした。
「じゃあ、メールですませればいいのに……って、今スマホないのか」
「それもあるけど、こういうのは顔を見て話をするのが筋かなって。……気は進まないけどね」
「何その、ちょー大人な発言。寝てるあいだに何かあったわけ?」
「えっと……」
冗談めかして尋ねる佳苗に、芽衣はどうしようかとためらった。
誰かに、マータラムでの出来事を話したいと思ったのだ。あの世界であったことを、出会った人たちのことを。
信じてもらえなくても、誰かと共有したかった。そうしないと、あふれる思いを持て余して、どうにかなってしまいそうだった。
「実はね、寝てるあいだに私としては、半年くらい経ってる感覚なんだよね。その、不思議な夢を見てて。……長くなっちゃうから、今度聞いてね」
佳苗なら笑いながらでもきちんと聞いてくれる気がして、芽衣は話そうかと考えた。だが、いざ話そうとすると胸がいっぱいになって、言葉が出てきそうになかった。
アラインへの思いは、まだうまく処理できていないから。
一緒に帰ろうと思っていたのだ。一緒に生きていこうと思っていたのだ。これからアラインを幸せにしようと決めていたのだ。
それなのに、結局離れ離れになってしまった。
もう二度と、会えないかもしれない――そう思ったらこらえていたものがあふれだして、苦しくなった。
「不思議な夢か。うん、今度落ち着いたら聞かせて」
「ありがとう」
涙をこらえている芽衣に、佳苗は気づかないふりをしてくれた。だが、添えていた手で背中を撫でてくれたから、気づかってはくれているのだ。
「そういえば、不思議って聞いて思い出したんだけど、あたしも不思議なことがあったんだよ。芽衣が川に落ちた橋があるでしょ? あそこにめちゃくちゃきれいな外国人の男の人がいて、『君と同じ服を着た少女を助けたんだが、その子は無事か?』とか聞いてきたの。ブサイクだったら即通報案件だよね。でも、すっごいイケメンだったからとりあえずわかんないって答えといたけど、よく考えたら芽衣のことだったのかなって……大丈夫?」
佳苗の話に驚いて、芽衣は松葉杖から手を離してしまった。
あまりの驚きに心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れる。それを何とか落ち着かせ、芽衣は口を開いた。
「それ、いつのこと? その人、銀髪?」
「今日だし、銀髪だけど……」
「今から橋に行く!」
まさかと思ったが、髪色で確信した。
佳苗に声をかけたのは、間違いなくアラインだろう。芽衣と同じ制服を着た佳苗を見て、思わず声をかけたにちがいない。芽衣を探す手がかりが、それしかなかったから。
「待って芽衣! そんなふうに無茶したら脚に悪いよ!」
アラインがこの世界にいる――そう思うといてもたってもいられなくなって、芽衣は自由のきかない身体で移動を始めた。佳苗はあわててそれに付き添う。
「裕也の病室は?」
「また今度。橋に行かなくちゃ。私、その人に会わなきゃいけないの!」
「……わかった」
止めても無駄だとわかったのか、佳苗は芽衣の左側を支えてくれた。腕の力が弱く、まだ松葉杖でうまく歩行できないのがもどかしいが、その支えのおかげでいくらか早く進むことができた。
「頑張って。あと少しでエレベーターだよ」
「うん」
励まされ、芽衣は一歩一歩進んでいく。エレベーターに乗ってしまえば、あとは一気に一階まで下りてエントランスに向かうだけだ。
「ついて行ってあげられるのは下までだよ? ほら、一応あんたがいなくなって騒ぎにならないように、時間稼ぎをする必要があるかもだから」
「……ありがとう!」
エレベーターに乗って下に向っている最中、佳苗は何だか言い訳をするように言う。正義感の強い彼女のことだ。きっと入院患者を外に出すことに対する抵抗と、芽衣の願いを叶えてやりたいという思いに挟まれて、葛藤しているのだろう。
「佳苗、今度美味しいもの食べようね」
「うん。芽衣のおごりね」
エレベーターを下りると、そんな会話を交わして芽衣は一目散にエントランスへ向かう。誰にも見とがめられないよう、はやる気持ちを抑えて慎重に。
外に出ると、しとしとと雨が降っていた。だが、空は明るい。少しためらってから、芽衣は一歩踏み出す。
傘を借りに戻ろうとか、雨が止んでからにしようとか、そんなことは考えられなかった。
悠長なことを言ってアラインに二度と会えなくなるかもしれないと思うと、怖くてできなかったのだ。
外に出てから、自分の服装がものすごく目立つことに芽衣は気がついた。パジャマに松葉杖なんて、病院から抜け出してきたのがバレバレだ。足元がスリッパではなくサンダルなのが救いだが、それも見た人に伝わるかはわからない。
通りすぎる人々の視線にさらされ、どうしてこんな大胆なことをしてしまったのだろうと、ちょっぴり自分の無鉄砲さを悔いた。
だが、それも橋にたどり着くまでだ。
「……っ!」
橋の上の光景に、芽衣は一瞬呼吸を忘れた。
傘をさして、ひとりたたずむ男性。安物のビニール傘をさし、身に着けているのも何の変哲もないシャツとパンツだ。それでも、すらりとした背丈や銀の髪は、彼をその灰色の景色にとけこませるのを許さない。
そこだけ別世界のように輝いて見える彼のもとへ、芽衣はできうるかぎり大急ぎで近づいていった。
「アライン!」
一歩、一歩と近づくのに、なかなか距離が縮まらない。もどかしくて、苦しくて、芽衣は大きな声で呼んだ。
その声に反応して、川をながめていたその人が、ゆっくりと振り返った。
「……メイ!」
「アライン!」
嬉しそうに微笑んで駆けてくる姿を見て、ようやく芽衣は安堵した。名前を呼んでくれる声も、間違いなくアラインだ。
それでもどこかで信じきれなくて、不安で苦しくて、芽衣はアラインを見上げた。
「……本物のアライン? 現実?」
涙目で問えば、アラインはいたずらっぽく微笑んで芽衣の頬に手を伸ばした。
「どうだ?」
頬をつまむ意味がわかって、芽衣はへにゃりと情けない顔で笑った。
「……痛い。現実だね。夢じゃないね。本物だ」
心底ほっとして、こらえていた涙がポロポロとあふれだす。その涙を指先で拭って、アラインは芽衣の身体を支えた。
「身づくろいを整えるのに時間がかかってしまった。遅くなってすまなかった」
そう言って微笑むアラインを見上げて、芽衣ははっと気がついた。
「アライン、目が……」
ペリドットのような瞳の色はそのままだ。だが、その中央の瞳孔が縦型のものから丸になっていた。
「そうだ。すっかり、人の姿だ」
その言葉に、芽衣は願いが叶ったのだということを悟った。一緒に帰り、一緒に生きるという願いは、無事に叶えられたのだ。
「無茶なお願いごとだったのに……どうやったの?」
「われではない。われではなく、もっと上位の存在……神が叶えてくれたのだろう。人よりも竜よりもはるかに上位の存在が、世界にはいるということだ。よい動物が死ぬと神がひとつだけ願いを叶えてくれるという話があっただろう。もしかしたら、そういうものかもしれないな」
「アラインは、よい竜だもんね。神様が、ご褒美をくれたんだね」
人間のために生きた優しい竜のことを、芽衣はずっと覚えておこうと思った。目の前のこの美しい人が、かつては神と崇められ、人間を大切にしてくれた竜だったことを。
「脚が……そんなことになってしまったのだな」
「ううん、いいの」
この脚が、願いの代償だということにも気づいた。そして、おそらく二度と前と同じように踊れないということも。
「ねえ、ずっと一緒?」
「もちろん」
「それならいい!」
松葉杖を離し、芽衣はギュッとアラインの首に抱きついた。背の高い彼に届くため、ほんの一瞬、両足で背伸びをして。
「ずっと、ずっと一緒だ、メイ」
芽衣の身体をアラインも抱きしめ返し、そのまま膝裏に手を入れ抱え上げた。
「あ、虹だ!」
突然のお姫様抱っこに照れて芽衣が視線をそらすと、空に虹がかかっていた。いつのまにか、雨は止んでいたのだ。
「こら、よそ見をするな」
「んっ……」
虹に見惚れる芽衣の唇を、アラインはやや強引にふさいだ。
初めは触れるだけだった優しいキスは、やがて大人のキスに変わっていく。
雨上がりの空の下、そうしてふたりはいつまでも幸せを確かめ合っていた。
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