第五章 還る場所3

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第五章 還る場所3

 病院のオープンテラスになっている休憩スペースで、芽衣は適切な言葉を探していた。  目の前には、車椅子に乗った裕也がいる。  どう話そうか、何を伝えようか、きちんと考えてきたはずなのに、なかなか言葉が出てこなかった。  雨は降っていないが、天気はいまいちな曇りだ。だから、わざわざテラスにまで出てくる人がいないのが救いだった。  この沈黙に、無関係な人を巻き込むことがあっては申し訳ない。 「脚、大変だったな。全治どのくらいだって?」  先に口を開いたのは、裕也だった。おそらく彼も、芽衣が何を話そうとしているのかわかっているのだろう。「話って何?」と直球で切り出せないあたり、彼らしいなあと芽衣は思う。  直球で切り出せる人なら、今頃こうした場は設けられていないわけだから。 「骨折自体は、二ヶ月くらいだって。あとはまあ、リハビリ次第かなって」 「そっか。真夏じゃなくてよかったな。真夏のギプスは蒸れるらしいぞ。剣道部の道着よりにおうってさ」 「えー、やだな。本当、今が秋でよかったよ」  クリーニングから戻ってきたばかりの制服に身を包んだ芽衣は、裕也の冗談に笑ってみせた。  そうやって笑うことができて、ほっとした。繭香を前にしたときのように、気持ちは凪いでいる。恨みも憎しみもないし、胸の中にわずかに残る恋慕も、過去のものだと感じられる。  これなら言えると、芽衣は改めて覚悟を決めた。 「ねえ、裕也」  呼びかけると、裕也が少し構えるのがわかった。普通、彼女に呼ばれても構えたりしない。ああ、もうちがうのだなと、寂しいのと安心するのと半々で思う。 「繭香のこと、好き?」  今度は、驚いて目を見開いた。だが、すぐにうなずく。 「そっか。じゃあ、私たち、お別れだね」 「芽衣……」  罵られると思ったのか。泣かれると恐れていたのか。  裕也は拍子抜けした顔で芽衣を見つめた。そんな彼に、芽衣はにっこり笑ってみせる。  繭香のことを好きだと認めた。それなら、きっぱり別れることができるから。 「そんなに長い付き合いじゃなかったけど、楽しかったよ。誰かに好きになってもらうの、たぶん初めてで。誰かをうんと好きになったのも、初めてで……いっぱい楽しかった。ありがとう」 「芽衣っ……ありがとう」  裕也の口は、一瞬「ごめん」の形に動きかけた。だが、最後には芽衣と同じ言葉を返してくれた。  謝罪されるよりも、許しを乞われるよりも、お互いに「ありがとう」で終わりたかったのだ。  だからそれができて、芽衣の気持ちはさっぱりとした。 「怪我、早くよくなるといいね」 「うん」 「じゃあね」  これ以上、話すことは何もない。  踵を返して、芽衣はその場から歩きだした。松葉杖をついているから、颯爽と立ち去れないのがもどかしい。  どこか近くで、裕也の車椅子を押して病室に戻るために繭香が待っているのだろうと思うと、早く立ち去ってやりたいのに。  もうきっぱりと終わった。だから、早く堂々と寄り添わせてあげたいなと思ったのだ。  それに芽衣にも、行くべきところがある。待っていてくれる人がいる。  だから、自然と足早になる。 「お待たせ」  芽衣が急いで向かったのは、病院近くの人気コーヒーショップだ。 「おつかれー」  店の前でカップ片手に待っていたのは、佳苗だけだった。 「アラインは?」  芽衣の質問に、佳苗は店内を指差した。  そのときちょうど、飲み物を手にアラインが店から出てくるところだった。  今日も何てことない服をさらりと着ているが、まるで雑誌から出てきたかのような存在感だ。長い銀髪をひとつに束ねているのも、様になっていてすごくきれいだ。  異界の地でも輝きを放っていた彼は、当然こちらの世界でもまばゆい。そんな美しい人が自分に気づいて微笑むのを見て、芽衣の顔には自然と笑みが浮かぶ。  その手にひとつだけ持っている飲み物を見て、頬はさらにゆるんだ。 「メイ、ちょうどよかった」 「アライン、それって」 「“ショートアイスチョコレートオランジュモカノンモカエクストラホイップエクストラソース”だ」  長い長い呪文を噛まずに唱えたアラインは、誇らしげに顔を輝かせる。  マータラムでこの呪文の話をしたときに興味深そうに聞いていたアラインは、これを注文したくてたまらなかったらしい。 「メイはこれが好きなのだろう?」 「ありがとう。アラインはよかったの?」 「わたしは、メイのをわけてもらうくらいでいい」  芽衣が嬉しそうにするのを見て、アラインはそれだけで満足という表情を浮かべた。 「……あまい。甘すぎる」  ジトッとした目でふたりを見ている佳苗が、小さな声で呟いた。彼女が飲んでいるのはブレンドだ。だから、甘いというのはふたりのやりとりか、はたまたアラインが手に持っている飲み物か。 「まあ、甘すぎるのは勘弁してほしいけど、仲がいいのはいいことだわ」  ひとつの飲み物を分け合って飲む様子を見て、佳苗は安心したように笑う。  今日は学校が終わって裕也に別れ話をしたあとアラインと待ち合わせだと言うと、佳苗はついてくると言いだしたのだ。  芽衣が怪我の身体を押して会いに行った相手がどんなものなのか、関係は、なれそめは、と様々なことを心配してくれていたらしい。  それで芽衣が裕也と話をしているあいだ、コーヒーショップで合流してもらっていたというわけだ。  そして、アラインは無事にこのおせっかいだが親切な友人のお眼鏡にかなったのである。 「外国人だし、年上だし、おまけにお互い一目惚れだとかいうからどうしようかと思ったけど、まあ大学の講師だっていうしイケメンだし、芽衣にあまあまだから、いいんじゃない?」  イケメンなのと、大学講師だというのはやっぱり効果が高かったなと、芽衣も何だかほっとしながら思った。  アラインは、こちらの世界では大学の講師をしていることになっている。といっても、今は休職した人の穴埋めの臨時で、普段は研究室に所属して教授の手伝いをしているのだという。  アラインがこちらの世界で人間として生活していくために、様々なことが細部に渡ってうまいこと調整されているそうだ。少しずつ、いろんな人の願いの重なり合う部分を利用して整えられたのではないかというのが、アラインの推測だった。  世界は、芽衣たちの知らないところで日々少しずつ調整され、最適化されているらしい。  人々に信仰されることで神の位についていたアラインには、そういった領域のことが少しだけわかるのだと言っていた。 「ねえ、甘いのはいいけど、それ冷たくない?」  そう言う佳苗の持つカップからは、ほのかに湯気が立ち上っている。そういえば今日は曇っていて、冷たい飲み物を美味しく飲むにはやや寒い気がしないでもないと思いつつ、芽衣は佳苗を見る。 「たしかにちょっと寒いけど、これからアイスを食べたいって言ってた人に言われたくはないかな」 「アイスは別なの。アイスは暑いとき食べても寒いとき食べても、どっちもおいしいんだから。それに、おごりのアイスは格別だし」  芽衣のつっこみに、佳苗はニヤッと笑った。  今日はこの前のお礼として、芽衣が佳苗にアイスをおごりに行くのだ。この秋が深まっていく中、三段アイスを食べると張り切っている。 「あ、また赤信号だ。今日はよく引っかかるなー」  アイスを食べに向かう途中、渡ろうとした横断歩道を赤信号で足止めされ、佳苗はぼやいた。  学校を出たところからカウントして、実に六度目のことだ。  ぼやきたくもなるが、アラインと芽衣は何とも言えない表情で顔を見合わせるだけだ。  感動の再会を果たしたあの日、アラインが芽衣を抱えて病院に戻る道中、すべての信号に引っかかり、やたらと飛ばす車に水たまりの水を幾度もはねられ、再び雨に降られ、傘を開くと強風によりビニール部分は飛んでいった。  そんな不運のオンパレードに見舞われたふたりは、信号で足止めされるくらいで動じていられない。  そう、動じてはいられないのだ。 「……だから、コーンじゃなくてカップにしときなって言ったのに」  アイスを店で注文し、店を出たばかりのところで三段アイスをさっそく二段にしてしまい呆然とするカップルを見て、佳苗は溜息をついた。 「……三秒ルール」 「だめだよ。誰よ、こんないたいけな外国人にそんな日本の悪しき文化を吹き込んだのは」 「そうだよ、アライン。この二段もいつまで無事かわからないから早く食べよう」 「このお嬢様もいつのまにか、こんなにたくましくなっちゃって」  佳苗につっこまれながら、アラインと芽衣は少し悲しげな表情でアイスを食べる。仕方がないことだとわかっていても、こうも不運が続くとやっぱり気持ちはやや沈む。 「メイ、すまない」 「ううん、いいの」 「だが、わたしのせいでメイは今後、クジには当たらず突然の雨には降られ、信号には引っかかり続ける人生だぞ?」  アイスを食べ終え、佳苗と別れた帰り道、気弱になった様子でアラインは芽衣に尋ねた。  寂しそうな顔をさせたくなくて、芽衣はアラインを笑顔で見上げる。 「私、アラインがいてくれるだけでいいんだもん」  アラインは申し訳なさと嬉しさの入り混じった顔で微笑むが、これは芽衣の偽りのない本心だった。  アラインは、芽衣と運命を分け合って、この世界に人間として存在している。  運命を分け合うとは、命の時間も、それを生きるための幸運も、ふたりで半分ずつということ。だから、ふたりは些細な不運に見舞われているのだ。  だが、芽衣はあまりそれを気にしていない。 「アラインがそばにいる――これ以上の幸運はないんだよ? 贅沢言ったら、バチが当たっちゃう」 「……そうだな」  明るく笑う芽衣に、アラインもようやく笑うことができた。  願いが聞き届けられ、アラインはやっと、愛する者の一生に寄り添うことができたのだ。もう途中で、別れ別れになることはない。  どちらが先に旅立つかわからないが、そのときまでは、ずっと一緒だ。  これ以上の幸運はないと、アラインは噛みしめるように思った。    これはかつて神と崇められた竜と、異界に迷い込み聖女と呼ばれた少女の物語。  少女と、人間となった竜は、その後も些細な不運に見舞われながら、仲良く寄り添って生きていく。 〈了〉
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