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一章 入院
木々に覆われていた視界が突然開けた。列車は丁度山と山の間に差しかかり、その向こうには海が広がる。少し下を見下ろすと、海に面した街が見えた。この辺りは海に向かって断崖絶壁が突き出た地形がいくつかあり、突き出た岬と岬の間には扇状地がある。この列車が向かっているのもそのような扇状地で発展した街の一つで、この一帯で最も大きな街だという。
しかし今回ここは私達の旅の通過点に過ぎない。ビジネスの商談相手がいるのは、ここから更に山を二つ超えた街なのだから。列車はこの小規模な地方都市を中継し、そのまま山二つ先の大都市へ向かう……はずだった。
「クリス、今の車内放送聞いた?」
車窓の景色を楽しめることが売りのトイレから出て座席へ戻ると、連れの友人ライオネルが焦燥まじりの声で問いかけてくる。
「この列車、蛍野市から先は運休だって。今日は蛍野市が終点になるんだって。昨日の嵐で所々土砂崩れが起きてるらしくて」
彼は金色の丸い瞳を曇らせながら、私ともう一人の友人を交互に見た。ライオネルの説明に、もう一人の友人ユーティーも落胆を示した。
「めんどくせーよなあ。いちいち点検って。そんなもんパッと見で分かんねーのかな」
ユーティーは両手を頭の後ろに組み、勢いよく背もたれに体重を預けた。
確かに進む足を止められるのは気分が削がれるが、それほど急いでいないのが幸いだ。
「仕方がない、この街で小休止と行こう」
駅員に行き方を尋ね、ここよりほど近い街の中心部へ向かった。
太陽が差し込む。春の太陽は暖かく、上着を脱いでTシャツ一枚になった。
道ゆく人はさほど多くないが、老人から子連れまで、穏やかな表情を浮かべている。中心部と言いつつも先進的なビルやショッピングモールなどはなく、やや年季の入ったコンクリートの雑居ビルが並ぶ。きっと娯楽は少ないだろうが、人々の表情を見るに、十分暮らすに足る街なのだろう。
さて、まだ日は高く、昼食にありついていない私達には丁度いい飯時だ。
「なんだよこの店、見かけによらず美味いな。—おっさん、餃子もう一皿!」
「ユーティー、失礼だって。あ、俺にザーサイ炒めね!」
二人の腹を空かせた若者は次から次へと注文する。テーブルの上に並ぶ色とりどりの料理の皿を見て、私も思わず唾が溢れそうになった。二人の男が皿を食い尽くす前に、料理へ箸を伸ばす。
空腹かつ食べ盛りの私達は、一度食べ始めるとそれを掻き込むあまり会話が止まった。そんな沈黙の中、無意識に周囲の会話が耳に入ってくる。
ーーまた人が消えてるんだって?
ーーああ、もう3人、いや4人目だったかなあ? なんの脈絡もなさそうだけど、この小さな街でこう続くってのはな。
ーーでも消えてるのはほとんど不法滞在者とか旅行者でしょ? 自殺かなんかじゃないの?
ーーだとしたら死体が見つからないってのも変じゃん。俺は裏があると思ってるけど!
ーーお前そういう話好きだなー。
「おい、お前ら炒飯食い過ぎだろ!」
私の意識は目の前の皿へ戻った。気付けば楽しみにしていた炒飯が残り4分の1ほどになっている。
「悪い、美味かったからつい」
「ごめんごめん」
私達の旅では日常的な光景だ。気の合う連中だからこそ遠慮はない。
眩しいブロンドのショートカット、少年のようなあどけなさを残しながらも冷静な判断が得意で、その上人当たりも良いライオネル。メッシュがかった黒髪を後ろで束ね、手入れされた細身の外見からは想像ができない粗暴さだが、これまで修羅場を切り抜ける手助けをしてくれたユーティー。
私以外の二人はこの国では外国人だが、もはやこの国でも定住している外国人は珍しくない。それに各国を渡り歩いている間に、お互いが何人かなんてことはもう意識しなくなった。
腕に覚えのある彼らは金のない実業家である私に旅費だけで付き合ってくれ、いざという時には頼もしいボディガードになる。彼らにも各々目的があり利害が一致しているからということもあるが、勿論それだけで長く行動を共にできるはずがなく、全く感謝している。
「宿も取れたし、今夜遊べるところ探そうぜ」
「てか本当にちゃんと明日鉄道再開するのかな?」
当てもなく街を歩くが、いつしか私の頭の中では街の景色も連れの友人の会話も遠ざかっていた。
「クリス、なんか静かだな?」
ユーティーがふと気づき、私の顔を見る。丁度私は額に嫌な汗が流れるのを感じた。
「てか顔色悪くない? 大丈夫?」
ライオネルも私に気づき、心配してくれる。
「うん……実はさっきから腹が痛くて。列車に乗っているときからおかしかったんだが、段々酷くなってな」
「そういえばお前今日何度もトイレ行ってたな。でもどうせあれだろ? 例のあの日なんだろ?」
「ユーティー! デリカシー!」
「いや、これはそういうんじゃなく本当にまずい……。悪いが病院に行ってもいいか」
「もちろんだよ!」
経験上、この腹痛はきっと食あたりだろうと予想は付いた。しかしすぐに収まる様子でもないので、ここは素直に病院で薬をもらうのが得策だろう。スマホで一番近い病院を探して向かう。二人は快く病院まで付き合ってくれた。
「腹痛はいつからですか?」
「今朝からです」
「何を食べましたか?」
「朝はトーストとスクランブルエッグ。昼は中華を」
「ひとまず血液検査と血圧を調べますね」
あり来たりの症状にあり来たりの診察だというのに、ライオネルとユーティーは後ろでしっかりと見守っている。暇だから茶化したいのだろう。病院が空いているのをいいことに調子に乗っている。
「付き合ってくれてありがとう」
「いいんだよ、仲間だろ。にしてもお前だけ腹壊すなんてダサいなー」
「先月ユーティーが飲み過ぎてぶっ倒れたアレに比べれば可愛いもんだよ」
「ライ、お前こそ! ジムで調子に乗って病院送りになったのは誰だった?」
「あれはむしろ正当な負傷だからー」
くだらないやり取りを医者が遮った。
「あの、友人の二人も検査を受けることを薦めます。食中毒なら同じものを食べた人も症状があるかも知れませんから」
「あ、そう? じゃあ」
そうこうしている間にナースが採血を始める。いい歳をして針を刺されるのが怖いわけではないが、何となく落ち着かないので目を背けた。何気なく見た先にはモニターがあり、PR映像が映し出されていた。
『すごく疲れが取れますねー。肌ツヤも良くなったし、これ始めてからすごく綺麗になった気がします』
『若返った気がしますね。免疫力が向上したおかげで、風邪を引きにくくなりました』
点滴をした俳優やモデルが施術の効果を語っている。
「オートヘモセラピーすごく人気なんですよ。うちに来る芸能人も多いです」
映像を見ている私にナースが語りかける。
「ご自身の血の酸素量を増やすセラピーなんです。老化予防、免疫向上、美容と、メリットだらけなんですよ」
私は軽く受け流した。
ナースが離れた後、ライオネルが訝しげに尋ねてくる。
「ねえ、今の話ホント? そんなすごい治療本当にあるの?」
「まさか。科学的根拠はとっくに否定されてるよ。だからほとんどの国で廃れたんだけど、この地域ではまだやっているらしいな」
「なーんだ」
私が返すと、魅力的な効果を謳ったセラピーにひと時の期待をしたライオネルも、すぐに話題を終えた。
やがて三人揃って診療室へ呼ばれた。
「クリスさんは軽い食中毒ですね。念のため今日は入院したほうがいいでしょう。悪化するかも知れませんから」
「わ、私はそんなに危険なのか?」
「いえいえ、大丈夫だと思いますが念のためですよ」
この程度のことで入院するとは想定していなかったが、大事を取るためならと頷いた。
「友達の二人も、これから症状が出るかも知れませんから一緒に入院してはどうでしょう」
「え?」
驚き振り返ると、二人も想定していなかったようで同様に驚いている。
「いや、さすがに俺たちは大丈夫でしょ。宿も取ってあるしさ」
ライオネルも同じように、入院するのは大げさだと感じたらしい。
「クリスが心細いっていうなら別だが」
「私は一人で大丈夫」
ユーティーのからかいに、反射的に答えた。しかしこの時、何か正体の分からない少しの不安が心に生まれていた。この病院に対してだ。ナースや医者の一つ一つの言葉は何もおかしくないのに、どこか違和感がある気がしてならない。
入院はせず宿へ泊まるという二人を見送る。玄関まで見送ったとき、『蛍野西病院』の看板が目に入った。そのとき、ふとその名前に聞き覚えがあったことを思い出した。昼の中華料理店での会話だ。
ーーまた人が消えてるんだって?
ーーああ、もう3人、いや4人目だったかなあ? なんの脈絡もなさそうだけど、この小さな街でこう続くってのはな。
ーーでも消えてるのはほとんど不法滞在者とか旅行者でしょ? 自殺かなんかじゃないの?
ーーだとしたら死体が見つからないってのも変じゃん。俺は裏があると思ってるけど!
ーーお前そういう話好きだなー。
ーーそういやあのインチキ医者捕まったんだよ。マッド医者って呼ばれてた奴。
ーーああ、適当な発言ばっかして叩かれてた医者でしょ。捕まったんじゃなくて入院したんだよ。蛍野西病院の精神科にさ。
ーーへえ、やっぱ頭おかしかったんかな。
ーー黒い噂多かったし。取りあえず入院してくれて安心だね。
そうだ、あの会話に出てきたんだ。だがそんなゴシップ程度の噂話が、自分に関係があるわけがない。だが何故か、ライオネルとユーティーの背中が遠ざかるにつれ心許なさが増していく。慣れない土地で起こした腹痛のせいだろうか。とは言え、立派な大人なのだから泣き言は言っていられない。
ナースに案内され病室へ向かう間、言いようのない不安は増した。私の病室は外来のある建物から通路を渡って、別棟にあるらしかった。通路を渡ると一転して人の気配が無くなった。最初に入った外来の建物は閑散としていたものの小綺麗で暖かみのある内装だったが、病室のある棟は薄暗く、無機質な白い壁に入るヒビや、黒ずんだ鉄格子の入った窓が年季を感じさせた。きっと病院自体は古くて、多くの患者が利用するメインの建物だけ改修して新しくしたのだろう。
向かって右側には窓が並び、左側には病室の扉が並んでいる。
「クリスさんの部屋はこちらです」
ナースは長い廊下に並ぶ扉の一つを開けた。少し湿っぽい香りがした。部屋には空のベッドが6つ並んでいて、奥には窓があった。窓からは日が差し込んでいる。
「他には誰もいないの?」
「はい、貸し切りですよ」
ナースは私を中央右のベッドへ案内し、淡々と説明を続ける。
「何かあったらナースコールを押してくださいね」
ナースが部屋を出て行った後、私は布団を被ってうずくまった。腹痛は薬でマシにはなっていたが、額には汗が滲んでいて、すぐにでも横になりたかった。
そうしてじっとしているうちに、いつしか意識は朦朧としていた。
「貴方の血を教えてください」
枕元で若い女の声がして、私は目を開けた。いつの間にか寝ていたのだ。顔を動かして天井を見る。そして戸惑った。
ーー今のは誰だ?
首を持ち上げ、ぐるりと周囲を見渡しても人は見当たらなかった。薄暗い部屋にいるのは私一人。しかし、耳元ではっきりと誰かの声が聞こえたように思う。妙な胸騒ぎがしてきた。
「採血をさせてくださいね」
まただ。また誰もいない部屋に声が響く。胸騒ぎは悪寒に変わり、鳥肌が立った。私は自分の心臓の鼓動を聞きながら、周囲の気配に神経を研ぎ澄ませた。数秒間身動きせず息を止め、気配を窺った。
ーー自分以外の吐息が聞こえている気がする。
ふと、自分が横たわっているベッドを見る。ただの勘だが、この下から妙な気配を感じる。
私はベッドの上から身を乗り出し、下を覗き込んだ。その瞬間、ベッドの底から2本の細い腕が飛び出し、私の顔を掴んだ。両頬にヒヤリ、と冷たい感触が走る。ベッドの下にいる者と目が合った。全く血の気がなく黒ずんだ白い肌に、目は真っ暗に窪んで、ほとんど骨と皮の状態だ。どう見ても生きた人間ではない。
「ひっ……!」
驚きのあまり声が出なかった。
「血をください」
歯のない真っ黒な口で、女が言う。両頬を掴む手に力が入り、恐ろしい力でベッドの下へ引っ張られた。
「血をください。血を、血を、血を……」
ずるずると私の体はベッドの下へ引きずられていく。両手両足を踏ん張って落ちないように耐えていたが、それでも体は止まらない。女の顔が私の目の前に迫り、顔を突き合わせる形になった。女は真っ黒な口でニタリと笑うと、今度は私の腕と肩を掴み、下へ下へと引きずり込んでいく。腕を掴む力が一段と強くなり、とうとう体の半分以上がベッドから落ちた状態になった。
完全に支えを失った私の体は、あっという間に真っ暗な空間へ吸い込まれていった。
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