海をこぼせば

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海をこぼせば

まだ覚めない枕元に海の音が触れた。 朝の匂い、海辺の風を街に伝える天気予報もまだ動いていない。 姉と一緒に海へ行く。歩いていくのである。 私は隣で布団を引き剥がして寝ている姉を起こした。 「おはよう」 うん、うん。と呻いて暑くて布団を取っ払った癖に布団を被る。 放っておいてさっさと顔を洗い、歯を磨き、靴を履きかけたところで姉はようやっと起きてきた。 「ちょっと、置いてかないでよ」 「じゃあ早く準備して。歯磨き、顔洗う、早く」 姉は情けない声を上げて洗面所へ向かっていった。 上京して数年、久しぶりに会った姉は雰囲気がなんとなく違っていた。 それは恋愛関係からもたらされたのか、それとも都会という形のない存在が姉に取り憑いてそうさせたのか。 表面は相変わらず天然でだらしないように見えても時折まるで別の姿が覗かれて俯き加減の顔が更に強い闇を抱えるのだった。 どんなに強い口調でせっついても姉が上京し仕送りをしてくれるから私は高校に行けているのだ。 だから憎まれ口を言葉にするたびに私は姉を遠い何処かへ突き放してしまうような気持ちがしていた。 早朝四時、まだ外は暗く裏庭から続く海への獣道は懐中電灯をつけないとつまづいてしまう。 「お待たせ」 「懐中電灯もった?」 一瞬間が開いて、また情けない声を上げて引き返す。 一応確認しておいて正解だった。 たった一つの懐中電灯で姉妹揃ってくっつきなんてもうそんな年でもない。 取りに戻った姉はしばらくの間奥の方で物を掻き分けていたがようやく得物を掴んだようで慌ただしい音を立ててこちらに戻ってきた。 「じゃあいこっか」 早起きは慣れていないのだろう。姉は大きな欠伸をした。 千鳥足で裏庭の玄関を先に出た姉から微かに東京の冷たい花の香りがした。 小さな草木が足元で音を生む。 生まれては、獣道の暗い部分に吸い込まれて行き、別の何かを連れてきそうな気配を漂わす。 私はすっかり慣れた道だが、後ろで私の服の端を掴んで進む姉にとっては目隠しをされているような感覚だろう。 その証拠にしきりに“まだつかない?”と聞いてくる。 数年ぶりの質問だった。 私は昔もこうして怖がる姉を率いて海に出ていたのだ。今更、懐かしいような気持ちも含んでいつもよりも多く答えた。 「まだ全然だよ。忘れたの?海への行き方」 「一人で行ったことないもん。東京には海なんてないし」 しばらく私は黙っていたがやがて 「東京にいたらこの時間起きてないでしょ」 と図星をついた。 深い欠伸が後方から髪に当たる。 「だってコンビニぐらいしか開いてないもん」 言い訳、と言おうとしたところに海が見えてきた。 ぼんやりと濁って青く見える砂浜にはまだ誰の足跡もついていない。 海の奥底、日の出が近いせいか地平線を境に空が明るく見える。 オレンジのガラス玉をぶちまけたような空がこちらに来ると少しづつ夜色を強めて私達のところにまだ深く、暗い深海のような闇を連れてくる。 私達が来るのを待っているのは漣の音で誘っていた海とずっと昔父が作ったお手製の二人用ベンチだけ。 二人で腰をかけると少し窮屈だ。 「私地面でいいよ」 窮屈そうにしている私を見て遠慮気味に提案された。 なんだか、ひどく他人のような言葉だった。 「やめてよ」 つい、口から出るものに責任が持てなくなる。 「いいの、私ちょっと太っちゃったよね」 別にそんなことない。むしろ心配するくらい細い。 元から華奢な身体だったが、上京してから全身が瞬く間に削り取られているように見える。 俯いた笑顔を浮かべて砂浜に寝そべる。 ふと、風が吹いて砂を少し動かした。 「地球には空に水をこぼさない不思議な力が宿ってる」 ふと姉は言った。 昔から姉の口癖だ。ここにくるたびに同じように気づき、まるで宝を見つけたかのような口調で語る。 「ほら、こんなにたくさんの星がある宇宙なんていう大きい空間に海は溢れていかない。どうして誰も思いつかなかったのかな」 寝そべったせいで星が見えるのだろう。 私はベンチに、姉は砂浜に。 少しだけ顔を出した朝日と、まだ起きることも知らない星々の空。 見てる場所は同じなのに。 「東京に海なんてない。けど、うまく泳いで行かないといけないの」 「枯れ果てた乾いた海をみんながんばって泳いでる。人波を掻き分けて、毎晩眩しいぐらいに光ってる歓楽街に晒されて」 そう結んだ姉の顔は今までで一番沈んでいた。 「この海、東京まで持って来れないかな」 願いのような。一言。 その刹那。 波音がうねり、透明な水が私達の見ていた空を覆った。 出かけてる日の出が水に透けて歪む。 オレンジを撒いた遠い空の方向から透明な水のクジラが明るみに差し掛かる空を透かして一回転した。 トビウオが星々を一瞬だけ揺らがせて街の方向へ飛んでゆく。 いつの間にかベンチは海辺に突如として現れた一瞬の水族館になっていた。 私達すら透かしてしまいそうな海水が次々と魚に変わりどこかへ泳いでいく。残ったのはこんなにも近くで水を感じていたにもかかわらず一滴も濡れていない二人だけだった。 ーー 後日東京は大騒ぎだった。 都心のビルや駅がまるで頭から丸ごとかぶったように水浸しになり道路に大きな水溜りを作っている状況が全国ニュースで取り沙汰された。 夜間ビルの間に出た月を透かした水クジラがビルに何匹も突っ込んだ。 と証言する人間が現れ、その誰もがシラフだったという。 ニュースの天気予報士はこの異常気象のせいで揃って、木偶の坊になりニュースキャスターは専門家を招き議論した。 「なんか、大変なことになったね」 姉の携帯からニュースの音が漏れて聞こえる。 「うん、でも別にいいんじゃない。それより東京に着いてからはどう?仕事うまくやれてる?」 「まあまあだよ。でもなんか今日は電車止まったみたいだからなくなった」 だいぶ昔から聞いてなかった明るい声。 「またいこうかな。海」 「今度は一人で行くの?」 私は微かな期待を持ちながら聞いた。 「うーん、迷ったら嫌だからまたお願い」 「いつになったら道を覚えるんだかね」 そう毒づくと姉は電話越しに笑った。 随分と明るい笑顔だった。 “ありがとうね。いつも” 心の中で呟き電話を切る。 今日の空は一段と水っぽく見える。 窓から覗く庭で一匹の透明な水イワシが静かに跳ねた。
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