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化粧落とし係
私はお嬢様専属の化粧落とし係です。
妙な仕事があるものだとお思いでしょうが、財あるものは物事を細分化し、お金を使いたがるものなのです。
お嬢様はお化粧をしている時に笑いません。微塵も笑顔を浮かべません。例え、お父上と食事をしているときも、平民たちの様子を馬車に乗ってご覧になっている時も、許嫁である隣国の王子様と会食をしていようと、決して笑おうとはしません。
人はお嬢様の事を鉄面皮だとか、無愛想だとかおっしゃいますが、私は彼女の別の顔を知っています。
寝る前に化粧を落とした時、彼女は純朴な笑顔を浮かべて私にお礼を言うのです。
甘やかな静かな声で、「どうもありがとう」と。
白状します。私はその笑顔に、声に、一瞬で恋をしました。
身分不相応だ。それにお前は女じゃないか。何度も自分にそう言い聞かせました。けれど、お嬢様の事を思っている時のあの甘酸っぱい思いは何にも代え難いのです。
頰を染める桃色の頬紅を落とした時、その頰をそっと撫でたくなります。
目元の赤を落とした時、その素直な曲線で私だけを見つめて欲しいと思います。
口紅を優しく落とした時、私はその何も知らなそうな純粋な唇を奪いたくなります。
そんな事をしたらお嬢様は私を嫌うでしょう。
私はなるべくお嬢様の顔を見ないようにして、一人静かに耐えるのです。
そう、その日も私はいつも通りお嬢様の化粧を落とすだけのしがない化粧落とし係でいるつもりでした。出過ぎた真似はしない。そういつも通り自分に言い聞かせていたのに。
お嬢様がいつものように微笑んでお礼を言うのを遮って、私は尋ねました。
「お嬢様、このような事をお尋ねするのをお許しください。お嬢様は、どうしてお化粧をしている時、お笑いにならないのですか」
私は顔を真っ赤にして、俯きました。
ある一つの淡い期待を胸に抱いていました。
お嬢様が、「あなたの前だから」そう言ってくださったら、私はその場で死んでしまってもなんの後悔もありません。
お嬢様は穏やかな微笑を浮かべて、首を傾げて言いました。
「お化粧をした顔は好きではないの。どんなに美しい化粧を施されても、素顔の美しさにはかなわないわ。それに…」
お嬢様は少し言い淀みます。私の期待は最高潮に膨れ上がりました。もしかして、もしかして…。
「それにね、お化粧をした笑顔を美しいと言われることは、怖いと思わない?」
「怖い…?どう言うことでしょう」
「素顔の笑顔の価値が下がってしまうかもしれないって、そう思うの」
お嬢様は口元に手を当てて笑いました。
「さっきから、なんだか深刻な顔をしているわね。心配してくれたの?」
私は自分の眉間に皺が寄っていることに気がつきました。
「…いいえ、差し出がましい質問をしました」
「気にしないで。お友達みたいに話してくれた方が気楽よ。歳も近いのだから」
お嬢様は私の手を取りました。
「聞いてくれて嬉しかった」
お嬢様の手は血管が全て見えてしまいそうなほど白く、美しい。冷たそうに見えるのに、温かいのです。
その時、私は自分の立場がどうなってもいいと思いました。絞首台の前に立たされても、この時のことを思い出して幸せに死んでゆこうと。
私はお嬢様の肩を強引に引き寄せると、無理やりその唇を奪いました。
彼女の笑顔そのもののような、柔らかな感触でした。目眩のするような幸福感は、お嬢様が私を押し戻すまで続きました。
お嬢様は顔を真っ赤にして俯くと、静かな声で
「お父様には黙っているわ」
と呟いて、足早に部屋を出て行きました。
「ついに…やってしまった」
私はお嬢様の化粧を拭うための柔らかな布に顔を埋めて、声を押し殺して泣きました。
その後、化粧を落とす時間は無言のうちに過ぎてゆくようになりました。化粧を落としている時に肌が触れ合うと、お嬢様は顔を背けるようになりました。
ひどく苦痛でした。身勝手な苦しみだと言うことはわかっています。それでも、お嬢様があの笑顔を私に向けてくれないことは死んだも同然でした。自分で蒔いた、種なのに。
「…お嬢様」
お嬢様は前を向いたままでした。
「お嬢様、あの時は…身勝手な振る舞いをしました。申し訳ありませんでした」
私はお嬢様の横顔に頭を下げました。そして、そのまま話し続けます。
「私にはこの仕事を続ける資格はありません。明日には出て行こうと思います。私を辞めさせてください」
声が潤みました。お嬢様前を向いたままです。
「明日で性急すぎるのなら、ご検討のほどお願い致します」
涙が滲みました。けれど、私には泣く資格すらありません。俯いたまま部屋を後にしようとすると、お嬢様が私を呼び止めました。
「ごめんなさい、待って」
振り返ると、お嬢様は静かに涙を流していました。
私は驚いて、慌てて近寄ると、お嬢様の涙をぬぐいました。
「謝らないでよ、私は嬉しかったんだから」
お嬢様の涙はとめどなく溢れます。
「それでも、気持ちに応えられないのが辛いの」
お嬢様は泣きながら語りました。
近々 許嫁の元へ嫁がなければならない。そうでなくても、立場上私のものにはなれないと。
私は呆然としました。いかに身分不相応だったのか。それを突きつけられたように思いました。
負け惜しみのように、私は声を張り上げました。
「国を追放されても、私がお嬢様を守り抜きます!いくらでもお嬢様を愛します!だから…」
お嬢様は私を抱きしめました。思いのほか力強く抱きしめられ、私は言葉を失いました。
「駄目よ」
ひどく大人びた声でした。
「あなたに迷惑はかけられないわ」
「あなたを愛していていいのなら、迷惑ではありません!お願いです」
お嬢様は、私の唇を塞ぎました。
甘やかな吐息を残して顔を話すと、お嬢様は諭すように言いました。
「ごめんなさい。私の、最後のわがままよ」
お嬢様は目を赤くして私に微笑みかけました。
私はその場に座り込んで、子供のように泣きました。お嬢様は私が泣き止むまで頭を撫で続けました。
今日はお嬢様が隣国の王子様に嫁いで行く日です。国中に装飾がほどこされ、その門出を祝福していました。
使用人達は一列に並び、お嬢様と王子様の乗る馬車を見送っていました。
お嬢様は、相変わらず真っ直ぐ前だけを見つめてピクリとも笑いません。
私は、あの笑顔をもう見られない。そう思うと、涙が出そうでした。けれど、美しいお嬢様の姿が涙で霞んでしまわないように、お嬢様を笑顔でお送りできるように、私は笑いながら馬車に向かって手を振り続けました。
馬車が私の目の前を通りかかる時、不意にお嬢様が私の方を見ました。そして、微笑んだのです。今までに見たどんな笑顔よりも、それは美しく、儚い笑みでした。
私はその微笑みを、一生忘れることはないでしょう。
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