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凪の喋った言葉に秋葉が初めて困ったのは、小学六年生になったばかりの時だった。
「秋葉、明日の理科はAVに変わるらしい」
凪がいかにも、あぁそうだ思い出した、という口調で言うものだから、幼い秋葉は大いに動揺した。部屋の扉が開いていることに気が付いて慌てて閉め、それから母が今は留守にしていることを思い出したくらいだった。
最近、周りのクラスメイトが話す雰囲気が変わっていることにはとっくに気が付いていた。恥ずかしそうに、それでいて心底楽しそうに笑っている内緒話の内容くらい、おおよその検討がつく。
秋葉だってそれなりに興味も知識も持ち合わせていたけれど、まさか幼馴染の口からその類のワードが飛び出すとは予想もしていなかった。
「ど……どういうこと?」
おそるおそる尋ね、よくよく聞いてみれば要するに、毎週担当の外部講師が来れなくなったので、急にビデオ鑑賞授業になった、ということだった。
ほっとした気持ち半分に、秋葉が凪に怒ってみせたところ、凪は不思議そうな顔で尋ねた。
「じゃあ、AVの本当の意味ってなんだ?」
訊かれて、秋葉は困ってしまった。
本当なら、そのまま言葉の意味を教えるなり、恥ずかしいから言いたくないなどと正直に言うなりすれば良かった。
「その言葉は、秘密の合言葉で、……だから、他の人に聞かれたらダメだよ。わかった?」
『合言葉』。それは、凪が初めて『公衆の面前で発するには不適切な言葉』を喋ったとき、気恥しさから秋葉が設置した、口から出任せのストッパーだった。
それに「わかった」と凪が素直に頷いたのはいいものの、その反面、子供騙しのような約束は歳を重ねる毎に増えていった。
疑うことを知らない凪の性格がこうも上手く作用してしまうとは、この時の秋葉には把握しきれないことだった。とはいえ、さすがにそろそろ秋葉も責任を感じ始めているのだ。
ーー真面目に説明でもしたら、質問責めにされるのは目に見えてるんだけど…
俺が悪いな、と秋葉は思った。
数週間おきのメンテナンスで少しずつ背が伸びて、それでも自分を抜かすことなく止まった身長のように、垢抜けない、相変わらずの凪に安心しているのかもしれない。
身内の贔屓目ではなくて、凪が綺麗だった。
太陽光に透ける黒髪、滑らかな繋ぎ目が残る肌、秋葉を覗き込む水溜まり色の瞳孔───
「…って凪、なんで上脱いでるの!?」
さっきまでおとなしく秋葉の部屋の漫画を眺めていた凪が、いつの間にか制服のシャツを脱いで上半身を露わにし、秋葉のことを覗き込んでいる。
「トレーニングは服を脱いでするものだと知った。違うのか?」
小首を傾げて問い掛けた凪に、そう言えば学校でそんな約束をしたと思い出した。
そもそも凪には筋肉がないので、トレーニングと言っても関節の動作調整という所だろうが、どこかで見掛けて自分も試してみたくなったのだろう。
秋葉はベッドで壁にもたれていた居住まいを正し、教える姿勢になった。
「確かに薄着でする人が多いけど…あれは運動すると人の体温が上がって、汗をかくからだよ。凪は発汗しないし、そもそも体温も一定でしょ?」
秋葉の言葉に細かい間隔で頷き、凪がひとつひとつ学んでいく。秋葉は、身の回りの自分では気にもしない物事を順序立て、整理していくこの感じが嫌いではなかった。
「だからその意味では理由が変わってくるけど、あれには身体を抵抗なく動かす目的もあるから…確かに間違ってないね。じゃあ、そのままやってみる?」
凪が、秋葉の「間違ってない」という言葉にわかりやすく嬉しそうにする。こくりと頷いたかと思えば、そのまま腕を広げて秋葉の胴に抱きついた。
予想の斜め上を行った行動に硬直する秋葉をよそに、凪が腕に力を込める。重い音で秋葉の頭が壁にぶつかったのにも気がついていないようだった。行動として「正解」したことがそんなに嬉しかったのだろうか。
「な…なぎ、凪。わかった、わかったから。背中痛いしちょっと緩めて」
素肌を叩いて秋葉が言うと、凪は思いの外すんなりと腕を解き、膝の上に乗ったままできょとんとした。
「もういいのか?」
ますます訳がわからない。てっきり凪の方から抱きついてきたと思っていたのだが、秋葉の知らない間にお願いしたことになっていたのだろうか。
「ええと、統計的に、トレーニングは抱擁をはじめにすることが多いと思った」
秋葉の困惑を感じ取ったように凪が言う。しかし、秋葉の知るところではトレーニングとハグは結び付かない。
答えが不十分だと判断したのか、凪の頭からする、ジー、というモーターの回転ような音が小刻みになり始めた。
凪の思考がどんどん深くなっていくのが、秋葉には手に取るようにわかった。きっと膨大な記憶と資料の中を駆け巡る勢いで正しい答えを探しているのだろう。
秋葉は手探りで凪が脱いだシャツを探し、未だ膝の上にいる凪の肩に掛けようとした。
「…凪、そろそろ服を」
秋葉が言い終わらないうちに凪の思考音が突然途切れ、凪がぱっと秋葉を見た。ようやく最適解を見つけられたようだ。凪には珍しく、自信満々な口調だった。
「秋葉も服を脱げばトレーニングが出来るんじゃないか?」
*
どうしてそうなった?
秋葉は片手で額を押さえ、目の前で満足気な顔をする幼馴染から若干目を外しながら問うた。
「ええと…ちょっと待ってね…抱擁の後、凪は何をするつもりだったの?」
秋葉の質問は、今度は深い思考に入らずとも答えられるものだったようだ。凪の変化の少ない表情もどことなく自慢げな気がする。
「秋葉にキスをしようと思っていた」
「あぁ…そっか…」
ある意味で予想通りの答えが返され、秋葉はため息混じりに合点した。
ここ数年、しばらくお馴染みだったいつもの言葉の間違い探しなどではなく───今日の凪は初めから、本当のことしか言っていなかったということだ。
「ごめん、それ、トレーニングじゃないや…」
凪の顔に驚きが広がる。そりゃそうだろう、凪としては秋葉に訂正されて、正しくそれを使っていたつもりだったのだから。
「じゃあ、なんだ?」
秋葉の答えを何よりも楽しみにする、凪の興奮がひしひしと伝わってくる。
好奇心の権化のような顔をする凪の目が眩しくて直視出来ない。
「えっと…それ、セックスで合って、る…」
顔に流れる血液が沸騰しそう。
秋葉がそう思ったのは、散々渋ったあとに絞り出すような声で答えたあとだった。
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