1. シャロルの出会い

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1. シャロルの出会い

 シャロル・クロイツは庶民の娘である。本来であれば、名家の子女たちが通う学園に入学するなど考えられないことだった。  ブルクリアス学園は中等教育における教国随一の名門校だ。もっぱら地主や豪商、騎士や道士といった社会的地位の高い家が子女を預け、高額の寄付により学園の運営を支える。  卒業生のほとんどは家名を継いで次代の名士となり、それらを輩出した学園はさらに名誉を高めていく。  実際のところ、学園の入学費用は決して高額に定められていたわけではない。  ただ、入学の際に任意で施される寄付の金額は、どこから漏れるのか必ず衆人の知るところとなる。支払った額がその家の格を示し、格下の者は学園内で侮られる――といった俗習的な考えが根付いている。  そのため、ある程度の額を工面できる家でなければ入学することをはばかるのが暗黙のならわしとなっていた。  シャロルの父母はごく一般的な勤め人だった。父は初等教育の教師をしており、母は町の省舎で戸籍を管理する事務方である。  母の血筋をたどれば高級官吏の一族に到達するらしいのだが、勘当されたか自ら独立したのか、自分の親の代で既にほとんど関わりがなくなっているのだと母は言う。したがって、同窓生と違ってシャロルの家には使用人などおらず、「お嬢様」だなどと呼びかけられたこともない。  シャロルは身の程をわきまえていた。  “正統”な生徒たちから侮蔑と嘲笑を向けられるであろうことはもとより覚悟しており、それを恨み嘆くつもりもなかった。  幸運な巡り合わせによる縁にすぎない。  ただその運命を甘受し、精いっぱい報いようという一心だけを抱えていた。 「――巡り合わせ、か」  シャロルの言葉に、前を歩く令嬢が肩をすくめてみせる。  編入当日、シャロルの周りの貴息女たちはやはり、ろくな寄付も行わずに入学した図々しい下級民としてシャロルを侮る者がほとんどだった。  質素な身なりや持ち物をあざ笑う声ばかりが聞こえ、通りがかりの人に道を尋ねてもろくに取り合ってもらえない。  独りとぼとぼと廊下をさまようシャロルに声をかけてくれたのがアンリ・コルティーア嬢だった。  彼女は寮が同室になったから仕方なく、とからかうように言いながらも、シャロルに校内の施設を案内してくれた。  身分を侮らないざっくばらんな態度に、名家にもこんなに親切な人がいるのだとシャロルは嬉しい驚きを感じていた。 「歌の才能を見初められたのだろう? 運よりは実力と言うべきだろうに」  編入することになった事情を聞いたアンリは、そう言って笑う。  言われたシャロルは苦笑してかぶりを振った。 「実力なんてたいしたものじゃないのよ。ただ親切な方に拾ってもらったというだけ。特別運が良かったんだわ」  シャロルは歌が好きだった。  父母が働きに出ている間に家事を行うのはシャロルの役目で、体を動かして家事をしているとつい唇が動いてしまう。踊るように足を動かしている様を通りがかりの隣人に見られ赤面したのも一度や二度ではない。  だが、その癖こそがシャロルを掬い上げることとなった。  初等教育を終えた歳のこと。  例によって家の外を掃除しながら口ずさむシャロルの歌を、ブルクリアス学園の音楽講師が聞きとめたのだ。彼はシャロルの才能にいたく感心した様子を見せ、そうしてぜひ学園に来て声楽を学ぶようにと勧めた。  裕福とはいえないシャロルにとって、講師による推薦を受けられるということはめったにない好縁であった。  入学それ自体よりも歌の才能を認められたことが何よりも嬉しく、許されるならば正式な訓練を受けたいとも願っていた。  だが父母が受け入れてくれるだろうか――というシャロルの不安は杞憂に過ぎなかった。  両親はシャロル本人以上に喜び、講師と直接相談をして、すぐに話をまとめてくれた。シャロルが望むのなら入学を決めてよい、と快く言ってくれたのだ。  全寮制の学園に行けば、両親と会える機会も少なくなる。それが唯一の心配ではあったものの、シャロルは両親の思いも講師の思いも、そして自身の望みもないがしろにはできなかった。  入学を勧めてくれた音楽講師も、安くはない入学金を用立ててくれた父母も、シャロルにとっては神様から恵まれた幸運にほかならなかった。 「だから……ここでしっかりやってかないとって思ってるの。両親にも先生にも恩返しをしなきゃね」  シャロルの決意を込めた言葉に、アンリは声を上げて笑う。嘲笑ではない、少し呆れたような、愛情のこもった調子に聞こえた。 「馬鹿正直な子だ! まったく、これから苦労するぞ――」 「ごきげんよう」  アンリの苦笑まじりの笑い声をかき消すように、背後から女性の声が投げかけられた。  とっさに振り向いたシャロルとアンリは、そこに立っている人物を見るや、一瞬石のように固まる。  シャロルの目がまずとらえたのは、鮮やかに咲く真紅の髪。それから床に流れる、黒のレースに飾られた深いビリジアンのワンピース。白い(おもて)がまっすぐこちらを向き、その中心には艶やかな唇がゆるやかに弧を描いている。 「……ごきげんよう」  アンリが挨拶を返した。さきほどまでシャロルと話していた快活な口調ではない、いくぶん緊張した声だ。  シャロルには彼女が何者なのか分からなかった。とはいえ失礼のないように「ごきげんよう」と同じく返すと、彼女はくすりと笑んで歩み寄ってくる。  滑るようにシャロルのすぐそばまでやってきた彼女は、シャロルの頭からつま先までを舐めるように眺めまわす。  シャロルはどぎまぎしていた。間近で目にする彼女の(かお)が、あまりに美しかったからだ。  透けるほどの白い肌は絹のようになめらかできめ細かい。すらりと通った鼻筋に、深い紫の紅で彩られたつややかな唇。長い睫毛の間からのぞく金色の瞳は、妖しく光って見る者の心を透かそうとする。 「……どなただったかしら?」  やがて彼女はそう言って小首をかしげた。肩の上から真紅の髪がふわりと滑り落ちる。  シャロルは焦る気持ちを抑えながら、目を伏せたまま口を開く。 「編入してまいりました、シャロル・クロイツと申します。ご挨拶ができておらず失礼をいたしました」  きっと有力者の息女に違いないと思い、できるだけ丁寧に頭を下げる。  名家の娘とシャロルでは身分が違うのは確かな事実なのだ。シャロルは本分をわきまえていたし、無礼なふるまいで周囲を不快にさせることはしたくなかった。  だが、緊張を高めるシャロルにかけられたのは、存外優し気な調子の声だった。 「まあ、そうでしたの。どうぞ顔を上げてちょうだい。ごめんなさいね、脅かすつもりはありませんのよ」  彼女はそう言って、ほっそりとした手でシャロルの頬に触れる。  うながされるまま視線を上げると、柔和な笑みを浮かべた金色の瞳に見つめられた。 「わたくしはイリアナスタ・ヴィドワ。ミス・コルティーアとは同じ講義を受けていますのよ」  視線を向けられたアンリは、何も言わずにただ微笑みを返す。だがそれもやはり、シャロルと話していたときの温かな笑みよりも強張ったものに見えた。 「あなたともこれからお会いすることが増えそうね。どうぞ仲良くしてちょうだいな」  そう言って笑った彼女は、握手を求めるように手を差し出してくる。  シャロルは少し戸惑っていた。  気づいてみれば、彼女は後ろに四人の女子生徒を従えている。アンリの緊張した様子からしても、やはり相当な有力者であることは違いないだろう。  だが、新参者のシャロルにわざわざこうして声をかけてくれたのだ。きっとシャロルが庶民だと知っているだろうに、身分を侮る様子も見せない。  非常に迫力のある人物であることは確かだが、むやみに恐れることはないのかもしれない。  差し出された手を握ろうとシャロルも手を挙げる。  そうして指先が触れた瞬間――シャロルの手はぴしゃりと振り払われた。 「……困った子ね」  彼女はシャロルを跳ねのけた自身の手を見やり、汚いものにでも触れたかのように宙に振って見せる。 「わたくしはあなたに手を差し伸べてあげるわ。上に立つ者が恵むのは当然のこと。でもあなたが――地にはいつくばっている有象無象のあなたが、差し伸べていただいた手をつかんでやろうだなんて図々しいと思わなくて? 仮にもこの学園に身を置くおつもりならば、立場をわきまえなさいな。わたくしは与えてあげる。あなたは深く畏まり、遠慮するのが正しい態度ですことよ」  彼女の美しい顔には、いまやはっきりと嘲笑が浮かんでいた。  呆然とするシャロルをよそに、彼女は真紅の髪をひるがえして悠々と歩み去る。  背後に控えていた女子生徒たちもまた、シャロルに侮蔑の視線を残して後に続いて行った。 「――嫌味を言うためにわざわざ声をかけてきたようだな」  憮然とした表情を浮かべたアンリが、シャロルの肩にそっと手を置く。 「大丈夫?」 「……ええ。親切な言葉をかけてくださったから、少し驚いただけ。平気よ、わたし、身分が違うのは本当のことなんだし」 「家柄がどうだろうと、当人を侮辱していいはずはない!」  アンリは少し声を荒げると、はたと我に返ったような顔をしてうつむいた。 「……すまない。偉そうなこと言ったって、何もしてあげられなかった」 「アンリが謝ることじゃないわ。そもそも、わたしのことを気にかけてくれたのはあなただけなんですもの」  お礼こそすれ、謝られるような立場であるはずはないとシャロルは思っていた。  貴人のアンリがあえてシャロルに構う必要なんてない。むしろシャロルのような卑しい女とつるんでいれば、シャロルと同じようにさげすまれることになるのは予想がつく。  アンリはそれを分かってシャロルのそばにいてくれる。まだ会って一日も経っていないけれど、シャロルにはもうアンリのことを信頼できる友人のように感じていた。  シャロルがそっと手を握ると、顔を上げたアンリは「本当に馬鹿正直な子だ」と弱弱しく微笑んだ。 「――彼女は、次期女王と目されている方なんだ」  再び回廊を並んで歩きながら、アンリが説明してくれる。  彼女はヴィドワ公爵家の次女であるイリアナスタ・ニグリア・ヴィドワ。  美しく才気あふれるイリアナスタ嬢は、多くの高貴な家の子女にとって憧れの対象であるらしかった。  公爵令嬢の彼女はある縁から王家と交遊を持ち、王位継承者であるフレデリック王子と親密な関係を結んでいると言われる。表立って公言されてはいないものの、王子と彼女が周りをはばからず二人で対面している様は多くの者が目撃しているらしい。  いずれ女王となるイリアナスタに目をかけられれば、将来の栄華を約束してもらえる――そんな噂が学内の子女の間で行きかい、彼女は入学当初から尊敬と畏怖の対象となっているのだった。 「王子様って、私たちと同じ歳なのよね」  新聞を読む習慣のないシャロルには、王子の顔を見た覚えはない。  父母から聞いた限りでは、王子はシャロルと同年齢で、飾り気のない率直な人柄で誰からも好かれているという。 「アンリはお会いになったことある?」 「いいや。でもフレデリック王子は、気軽に市井に出向くような変わった人らしい。従者の目を盗んで一人で森をうろついて遊んでることもあると聞いた。だから偶然お目にかかるようなことがあっても不思議じゃないのだろうな」  彼女もそうやって近づいたのか、などとアンリは目をすがめる。  方々から尊敬され誉めそやされるイリアナスタ嬢だが、その評判の陰には怪しい噂がつきまとった。  彼女は幼少の時分から強い野心と悪意を持ち、己が富と名誉を得るために他人を陥れては操ってきたというのだ。両親や兄姉すらも彼女に逆らうことはできないという。  人心掌握術のたまものなのか、あるいは魔術の類を使っているのか。手段はさだかではないものの、巧みに人間を操って自分の望む通りの結果を手に入れる“悪女”であると、陰では目されていた。 「ちょっとした逸話があるんだ」  寮の部屋に向かって廊下を進みながら、アンリが苦笑する。 「昔、彼女のベッドに大きな黒い毒蜘蛛が入り込んだことがあったらしい。暗殺しようとした何者かの仕業、なんて言われているよ。でも彼女は怯えることもうろたえることもなく、その蜘蛛を手懐けて一緒の枕でそのまま眠ったんだと。その話にちなんで、彼女はこう呼ばれているんだ――“黒蜘蛛(くろくも)(きみ)”とね」  アンリとシャロルのネームプレートがかかった扉の前で立ち止まり、アンリは含みありげな笑みを浮かべる。 「本当の話かどうかは分からない。黒蜘蛛の君というのも、表向きには蜘蛛にも慈悲をかける聖人だって意味と言うけど、本当は違う。蜘蛛みたいに計略をはりめぐらし獲物を捕食する、悪女だって意味の呼称だよ。……まあ、本人もそれを分かった上で嬉々としてそう呼ばれてるのだろうがね」  シャロルは生まれてこの方、邪悪な人間というものに会ったことはないと思っていた。  口が悪かったり意地が悪かったりするような人物はこの学園にもいないとは言わないけれど、それは“悪”と根本的に呼べるようなものではない。  シャロルにとっては人間の特性は善だった。  他者を傷つける言動を取る人も、それはただ自分を守ろうとしているだけ。  他者を守ることと自分を守ることの価値は変わらない。どちらも神から与えられた尊い命ということには相違ないのだから。  確かに、イリアナスタ嬢の先ほどの態度は決して気持ちのいいものではなかった。  けれど、それを持って彼女が“悪女”であるなどと決めつけてしまっていいものなのか。己の名誉を守ろうとする思いが高じてしまっただけではないのか。その気持ちは人間ならば誰しも持っているものなのだから。 「――さ、ここが私たちの部屋だ。荷物はもう運び込まれているはず」  装飾の施された扉板にはめこまれた金色のノブを、アンリの手が回す。  シャロルはこれから始まる生活に思いを馳せながら、キラキラと輝く視線を寮室内に向けるのだった。
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