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始まりは十歳になる歳の春のこと。
ヴィドワ侯爵家の次女であるイリアナスタは、毎朝の日課である礼拝のため、邸宅の外れにある講堂に向かうところを執事に呼び止められた。
「お嬢様、使者がお待ちです」
老執事のオスカーはイリアナスタが生まれる前から侯爵家に仕え、彼女の成長を支えてきたく祖父も同然の存在である。
朝早くの来客を不思議に思いながらイリアナスタは問い返す。
「どちらからの使者ですの?」
そうしてふと執事の奇妙な表情に気が付いた。
老執事は単なる来客の知らせにしては不自然に眉根を寄せ、感慨を抑えきれぬというような表情を浮かべている。
彼は一瞬唇をわななかせ、深く息をついたのちに静かに告げた。
「天使でいらっしゃいます」
「まあ!」
イリアナスタは胸に抱えた聖典を取り落とさんばかりに驚いた。
この世界は全知全能の神が創造し、そこに生きる人間の生命と活動を見守っている。人の在り方はすべて神が定めるもの。運命に従うことこそ人の本分であり幸福である。
天上にいる神に対し、一人の人間は天を見上げることはできるもののその声を耳にすることは難しい。されど神はときに使者を遣わし、自ら人間に言葉を伝えることがあった。
「わたくしに……ああ、なんということ。主がわたくしを選んでくださったの……!」
天使の訪問は、その者に神からの使命が与えられたことを意味する。
イリアナスタへの使命は彼女の一族郎党皆が達成を支える責務を負う。
多くの人間はそうして身近な誰かの役目を支えることになる中で、イリアナスタは自身が直接神から役目を与えられたという感動に打ち震えていた。
「ああ、オスカー! すべてはお父様やお母様、お姉様がたと、そしてもちろんあなたのお陰だわ。わたくしのような至らない娘をこれまで温かく育ててくださったんですもの……」
「とんでもない、お嬢様ご自身のご努力の賜物でございますよ。本当に……喜ばしいことでございます」
オスカーもまた、我が子のように愛するイリアナスタが誉れ高き役目を負うことを誇らずにはおれなかった。
彼女の努力をずっと近くで見守ってきたからだ。
イリアナスタはどのような役目が下されても必ずやりおおせるのだと決意していた。暗記している聖典をさらに読み重ねて心に深く刻み、歴史書を紐解いてはこれまで人間が果たしてきた任を学ぶ日々。同年代の少女たちがこぞって茶会や楽詩にふける中、彼女は独り遊蕩を厭い、己を律して厳しい修行に自ら身を投じた。
神が使者を下したのはイリアナスタの一途な献身を見ていてくれたのだからだと思うと、オスカーの目頭には熱いものがこみ上げてくる。
「使者は講堂でお待ちです。どうぞいってらっしゃいませ」
オスカーがなんとか冷静を保ちながらそう告げると、イリアナスタは重々しくうなずき「本当にありがとう」と彼の手を握る。
逸る気持ちを抑え、堂々たる足取りで講堂へ向かった。
歩きなれた廊下をたどり、通用口から母屋を出る。早朝の空には薄く覆った雲ごしに太陽の光が透け、イリアナスタの真紅の髪を淡く照らしている。
石の敷かれた路を進めば講堂の棟にたどり着く。背の高い褐色の扉の前に立ったイリアナスタは深く息を吸い込み、心臓の鼓動を治めるように深く吐き出した。
神の使者――歴史を記した文献には幾度もその存在が語られる。神の意を知り、人へと伝令する者。彼らが神と同じく人知を超えた存在であることは違いない。
扉の前に立ったイリアナスタは改めて神への陳謝を心に述べ、重く感じる扉を力を込めて押し開いた。
天窓から差し込む淡い日の光の下、長椅子に座っていたその人物は立ち上がってイリアナスタを振り向いた。
「どうも」
軽く手を挙げて挨拶をよこす彼に対し、イリアナスタはふわりと膝を折って一礼する。
「イリアナスタ・ヴィドワでございます。お目に掛かれて光栄ですわ」
「そう畏まらないでください。どうぞこちらへ」
促されるまま頭を上げ、紫色の絨毯を歩いて彼の元へ歩み寄る。
長椅子の背に手をかけてイリアナスタをにこやかに見つめるのは、若い男性に見えた。ヒナギクの花粉をそのまま染め付けたような黄色の帽子とマントが目に鮮やかに映る。
「僕はカルロ・カーリィ。神からの使いです」
イリアナスタは感極まる思いで胸を押さえる。
彼こそが天からの使者。服の黄色ばかりが目に残り、彼自身の容貌は不思議とはっきり見て取れない。そんなふわふわとした印象が彼の超人性を表しているように感じられる。
カルロ・カーリィと名乗った使者は再び長椅子に腰を下ろし、イリアナスタにも座るよう手を差し伸べる。
「朝からお呼び立てしちゃって悪かったね」
「いいえ、とんでもないことですわ。ご足労いただいたこちらこそ恐縮しておりますのに」
再び恭しく頭を下げるイリアナスタに、使者は人なつこい笑い声を上げた。
「僕にそんな気を遣わないでください。ただの使者だ」
「そんな……神の御言葉をお享けになる使者様だなんて、わたくしには雲の上の存在です」
「ダメだよ、今日はあなたのために来たんだから」
使者の言葉はまっすぐに響き、イリアナスタの意識を澄み渡らせる。唇を結んで使者を見つめるイリアナスタに、彼は穏やかな笑みを向けた。
「イリアナスタ・ニグリア・ヴィドワ。神の賜りし役目をお引き受けください」
「謹んでお受けいたしますわ」
即答するイリアナスタに、使者はいたずらっぽく小首をかしげる。
「どんな役目か聞かずにうなずいていいの?」
「ええ、神のたもうたものは何であれ喜ぶべきものです。選んでくださったことだけでわたくしには恭悦の極みなのですから」
「……そう。うーん、あんまり純粋に喜ばれると悪い気がしてくるな」
使者は丸く平たい黄色の帽子を取って、その下の栗色の髪をきまり悪げに掻き回す。
「あなたへの役目は……実際、あなたのような方には苦しいものになるかもしれません」
「わたくしのような者……?」
「謙虚で誠実で、感謝するということをよくご存じだ」
イリアナスタはかぶりを振った。
周囲からもこのように行き過ぎた評価を受けることはいくどもあった。だが、自分にはそこまでの価値などないと思っていた。ただ己の手の届く範囲で己を高めようと励んでいるだけ。まことに人々や社会のためになる実力など何も持っていない、単なる小娘なのに。
「わたくしには……あまりにもったいないお言葉です。何の役にも立たぬこの身、せめて神へのお役目が果たせるよう、徳を積むことに励んできただけなのです」
「それも聞いてる。あなたはまだ幼いのに実にストイックだってね。……だからこそあなたが選ばれたのかも」
使者は黄色い帽子を胸に当て、イリアナスタの金色の瞳をのぞき込んだ。
「あなたが果たすべき役目は――“悪”です」
イリアナスタは使者の茶色の瞳を見つめ返す。
さきほどの言葉は正直な気持ちだった。どんな役目であっても、それが自分に与えられたものであれば喜んで務めると。
全知全能の神は、一人の人間にすぎないイリアナスタには及びもしない考えをめぐらせている。イリアナスタの狭い視野で正誤の判断をするなどとおこがましいことだ。
「他人を利用し踏み台にして、己の富と力を増すことだけに尽力してください。倫理に反することを正義とし、人の苦しみをあなたの喜びとするんです。……難しい役目です。きっとあなたにしかできないからこそ、あなたが選ばれた」
悪――それは一人の小娘である自分が為すには、あまりにも大いなる役目に思えた。
だが、荷の重さゆえに投げ出すことなどあってはならない。
神がイリアナスタを選んだ。使者を遣わしはっきりと任じた。
イリアナスタはゆっくりとうなずいた。
そのとき既に彼女は、悪を体現する己の在り方を模索し始めていた。
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