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3. シャロルの挨拶
編入当日の午後、アンリが授業に行ってしまい一人になったシャロルは、テラスに座って授業の登録を行っていた。
中等教育では読み書き、倫理学、歴史学、科学、芸術、武術といった汎的な科目を扱う。ブルクリアス学園には専門知識に長けた講師が集まっており、高等教育に近い教授を施すことが可能だった。
質の高い教育により家柄に見合った実力をつけた者が、次代の名士として名を上げていくことになる。
学生は最低限の必須クラスの他にどの講義を受けるか任意で決めることができた。
シャロルはテラスの丸いテーブルの上にカリキュラムが記された大きな本を広げて、受けたい授業を探す。
音楽の推薦を受けたからには当然、声楽を始めとする音楽分野のクラスでほとんどを埋めることにしたが、一風変わったクラスにも目を惹かれていた。
「“コードー”って何かしら……?」
発音の仕方すら分からないクラス名をぽつりと呟いてみる。
すると、思いがけず答えが返ってきた。
「香りの道、という意味だよ。なんの成分がどういった香りを生むかを学び、作法に則って良い香りを味わうんだ」
驚いて顔を上げると、テラスにつながる廊下に黒髪の男子生徒が立っていた。いかにも通りがかったというように体は進行方向のまま、顔だけをシャロルの方に向けている。
シャロルが笑いかけると、彼は軽く肩をすくめた。
「じゃあ、“カンポー”というのは?」
「東域の医術だよ。粉薬を調合したり、体に針を刺したりする」
「難しそうね」
「基本的な内容だけだから、そう難しくはないよ。そもそも一年で本格的な知識は身に着かない」
「授業、受けたことがあるの?」
「去年ね。たいていのクラスは取ってるから」
会話を続けながらも、彼は今にも歩き去ろうとする姿勢を変えない。かと言って急いでいる様子でもなく、顔はシャロルに向けたまま困ったように眉を八の字にしている。
「私、シャロル。今日編入してきたの」
「そう……ああ、知ってるよ。だからクラス決めてるんだろ」
知ってる、と言われてシャロルは少し苦笑する。シャロルの身分を知っているということは、好ましくない評判のことも耳に入っているに違いない。だからこそのこの距離感なのだろう。
シャロルは、それでも彼がわざわざ話しかけてきてくれたということを嬉しく思っていた。
「……教えてくれてありがとう。ごめんなさい、呼び止めてしまって」
シャロルと話しているところを見られれば、彼も周りから冷たい目を向けられるかもしれない。
迷惑になってはいけないと思ってそう言うと、彼は廊下の前後を見やり、きまり悪そうにまた肩をすくめる。
「いいんだ。声かけたのは僕だから」
それだけ言い残すと、軽く手を挙げて彼は立ち去った。
名前を聞きそびれたことを残念に思いながら、シャロルは再びカリキュラムに目を落とす。
せっかく身分不相応な貴重な機会を得たのだ。普通なら触れることもないような分野を学ぶのもいいかもしれない。どんなものであれ、身に着けた知識はいずれ何らかの形で役に立つはずだ。
他の学生たちはどんな基準でクラスをとっているのだろう、とふと思いやる。
さっきの男子はとても博識な様子だったし、きっと幅広いクラスを取っているのだろう。アンリは体を動かすのが好きだからスポーツをいくつか学んでいると言っていた。
では彼女は――あの黒蜘蛛の君は?
シャロルは自分が思い浮かべた人物を意外に思う。
自分に親切にしてくれた人のことは、意識しなくても心に刻まれ忘れることはない。逆に辛く当たられた人のことは恨みを残すまいとするからか、あまり意識しないのが常だった。
だが今、シャロルの脳裏には黒蜘蛛の君がはっきりと映っている。
権力を持ち、“悪女”と噂される彼女に好意的な感情を抱かれていないことは分かっている。それどころか、向けられているのは敵意そのものだ。
疎まれる経験は決して珍しいことではない。だが、その敵意の持ち主にこうまで気が引かれるのは稀なことだった。
自分は彼女を恐れているのだろうか、とシャロルは自嘲的に思っていた。そうまで自分が可愛かったのか、と。
「――あら、お一人なの?」
かけられた声にシャロルは再び驚いて顔を上げる。
シャロルの座っているテーブルのすぐ前に、ペールブルーのボレロを着た女子生徒が立っていた。その色に見覚えがあるような気がするが、どこで見たのか思い出せない。
「ミス・コルティーアとご一緒かと思ったけれど。置いて行かれてしまった?」
彼女もまたシャロルのことを知っているらしい。アンリと行動をともにしていたことも把握しているということは、やはり一度顔を合わせたのかもしれない。
シャロルは立ち上がり、一礼をして返した。
「はい。アンリは授業に行ってしまったので一人なんです」
彼女の向ける視線や口調には、シャロルに対する好意的な感情はあまり感じられなかった。この場合、シャロルの方はできるだけ丁寧な態度を返すのが賢明だ。
「ふうん」
胸の前で腕を組んだ彼女は、あごをつんと上げてシャロルをじっと見つめる。
「わたしのこと、覚えてらっしゃる?」
「ええと……ごめんなさい、お見掛けしたとは思うのですけれど……」
「いいのよ。わたしはアリヤ・マキヴェリエ。今、覚えてちょうだい」
「ミス・マキヴェリエ……」
それは学園の位置するバストル市の市長と同じ名前だ。
思い至ったシャロルを察したように、アリヤは得意げに笑う。
「分かったようね。この学園でうまくやっていきたいなら、わたしとは仲良くしておいた方がいいということですわ」
そうしてちらりと背後に目をやると、シャロルに顔を寄せてきて小さくささやく。
「黒蜘蛛の君には嫌われたようだけれど、あなたの態度次第では目をかけてあげてもよくってよ。黒蜘蛛の君がご卒業なさったら、次に学園を統べるのはこのわたしですもの」
その言葉にシャロルは思い出した。
黒蜘蛛の君と話したとき、彼女が従えていた女子生徒の中の一人がアリヤだった。言葉は交わしていないものの、ペールブルーのボレロは確かに目にしていた。
「ただし、勘違いはなさらないことね。あなたが就ける役はせいぜい小間使いですわ」
アリヤは自信に満ちた笑みを浮かべ、ひらひらと優雅に手を振って立ち去った。
どうやら彼女は黒蜘蛛の君の後釜を狙っているらしい。ひょっとしたら今でも隙があれば、彼女の地位を奪おうとしているのかもしれない。
必然の理だとシャロルは思う。
高い地位は皆に認められてこそ成立する。認められることは、すなわち地位のありようを皆に知らしめること。それは畢竟、同じ高みに昇りつめようとする人の欲を掻き立てることでもある。
名を上げるということは孤独とほとんど同義なのだ。
それなのに皆が栄誉を求めるのはなぜなのだろう、とシャロルは少しだけ暗い気持ちになっていた。
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