31. シャロルの告白

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31. シャロルの告白

 シャロルは黒蜘蛛(くろくも)(きみ)が覚悟を決めているのだろうと信じていた。  彼女の言葉はきっと事実だ。自らシャロルに対面し、害しようとしている。そんなことをする必要はないはずなのに。操ることのできる駒はきっといくらでもいるはずなのに。  それをしない。体面を保とうとしていない。  すなわち――すべてを終わらせようとしているのではないか。 「……箱を開ける前に――」  石造りの硬い床に膝をついたシャロルは、かすかな声でささやいた。 「一つだけ、聞いていただきたいことがあります」  シャロルは知っていると思っていた。  黒蜘蛛の君が、自身の存在を悪に墜とすためシャロルを利用していること。シャロルを殺そうと画策し、悪の化身として衆目にさらされるであろうこと。  知っていると思っていた。  そう思える理由がシャロルにはあった。 「……私は十の歳に、神の使者にまみえました」  シャロルは両手に抱えたオルゴールの蓋の黒に視線を落としながら、語り始めた。 「使者は、神が私に与えたという使命を告げました。それは“善を体現し、人に示す”ということ。あらゆる人間を信頼し、どんなにつらい仕打ちを受けても相手を憎まず、その者が善に転ずる可能性を信じ続けること。……私には、少しも難しい使命ではありませんでした。それは私の身上でもあったからです。どんな人間でも尊い存在。己の身を護るために人を傷つける人間は“悪”と呼ばれることがあるけれど、それは真実ではない。すべての人間が、ただ尊い命を守るために精一杯生きている。使命を与えられる前から、私には自然とそう思えていたんです」  幼き日のシャロルは、自分の信念が正しいのだとお墨付きをもらった気がして嬉しかった。  使者が――神様が言うのだから間違いないのだと。この世にやはり、本当に悪い人間などいないのだと。 「……ですが、その使命は実際のところ、私にとってつらいものでもありました。私という存在は、“善き行いによって人は報われる”という因果の体現でなくてはいけないからです。昔から私は、身分に不相応な評価を受け、周囲の方々の注目を集めてきました。フレデリック殿下に出会い、この学園に入ることができたのも、ただ運命のたまもの。……それが私に与えられた使命の一端なのだと気づいたのは、ごく最近のことです」  不思議なものだ、と思ってきた。多くの人がシャロルを褒めてくれる。存在そのものを貴んでくれる。何をしたわけではなくとも、あなたはすばらしいと認めてくれる。  人の本性だからなのだと信じてきた。理由などなくとも、ただ人を敬い、愛することができるのが人間の本質。シャロルはそれを信じているから、それが正しいから、周りの人はシャロルに愛を与えてくれる。  無邪気に喜んでいたのだ。  それが浅はかな傲慢さではないかと思い始めたのは、この学園に入ってからのこと。  黒蜘蛛の君という存在を知ってからのこと。 「……私は縁によって救われ、人に認められ、傍から見ればきっと、何一つ不自由のない幸福な人生を送ることでしょう。それが……私に与えられた使命。神の思し召しだからです」  シャロルはゆっくりと目を閉じる。  箱を開けるつもりだった。真実、毒を吸い込むことになったとしても、おそらくシャロルは救われる。それが定められたシナリオ。シャロルが使命を果たすのではない。使命のために、シャロルという存在が使われる。  そして黒蜘蛛の君は――“悪”として断罪される。 「……神に与えられた使命を他者に伝えることは許されない。わたくしとて承知していてよ」  黒蜘蛛の君の静かな声に、シャロルは閉じたときと同じようにゆっくりと瞼を開いた。  黒いオルゴール。それを持つ自分のいかにも脆弱な両手。薄闇の立ち込める小部屋に、夜明けの赤い光が差し込み始めている。 「あなたの言葉は偽りだわ。わたくしを惑わそうとしても無駄なこと。つべこべ言わずに、そのオルゴールを開けなさい」  シャロルは顔を上げ、窓際にたたずむ彼女の姿を見つめた。  口調はあくまで冷淡さを崩さない。だがその美貌から、シャロルを挑発する妖艶な笑みは消えていた。彼女の本心に近づいた証であろうかと、シャロルの胸中に希望のようなものがこみ上げる。  シャロルは神から与えられる使命というものを知っている。その絶対性も、人がいくら抗おうとしても無駄であることも。  黒蜘蛛の君も同じに違いないと確信していた。  人は悪たりえない。黒蜘蛛の君はただ、己が心を殺して“悪”に殉じようとしている。すべては敬虔なる自己犠牲の意志。  使命を果たそうとする黒蜘蛛の君の、その強い信念を阻んではいけない。だからシャロルは箱を開ける。  だが――伝えておきたかった。  シャロルだけは知っているのだと。  神の使命を他人に口外することは許されない。敬虔な黒蜘蛛の君は決して口にしないだろう。  だからシャロルの方が打ち明けた。あなたの本当の心をちゃんと分かっているのだと、そう伝えるために。  あなたは悪ではない。  そう言えるのは、シャロルだけだと思っていた。 「一つだけお願いです、黒蜘蛛の君。何があっても、どうかご自分を……責めないでください。私は喜んで、すべてを受け入れます」  微笑むシャロルに、黒蜘蛛の君は何も返事をしなかった。ひたすらに冷淡な仮面を保ち、シャロルを見下ろしてくる。  当然のことだ。彼女は決して隙を見せない。それが黒蜘蛛の君の役目だと信じているから。  シャロルは片手でオルゴールの箱を支え、もう片手で蓋の留め金に触れる。金色の留め金を外し、蓋を開いた。  瞬間、何かがぶわりと顔に噴きかかる感触に思わず息をのむ。それと同時に耳に流れ込む、オルゴールの儚い調べ。だが金属のピンが鳴らす心地よい音は、すぐに激しく咳込み出した自分の声にかき消される。  喉から異物を追い出そうとする咳は次第に収まった。だが代わりに、鼻腔が、口腔が、喉が焼けるような痛みが襲ってくる。呼吸ができない。痛い。苦しい。  シャロルはその場に倒れ込んだ。  苦痛に耐え、呼吸を続けようともがくことしかできなかった。 「――あなたの勝ちね、ミス・クロイツ」  常のごとく穏やかで冷静な黒蜘蛛の君の声が、遠くで鳴っているように感じる。 「馬鹿正直にもわたくしの良心を信じ、箱を開けて毒を含んだ。実にご立派なことですわ」  足音が近づくと思うと、黒いレースのスカートの裾が降りてくる。黒蜘蛛の君がシャロルの前にかがみこんでいた。 「その清廉さがあなたの命取りでしたわね。残念ですけれど、あなたは今日のパーティーには出られませんの。あなたはここで独りきり。苦しみながら、この塔に上ろうという酔狂な人間が訪れることをお祈りなさいな。助けが来たところで、解毒薬がなければあなたは助かりませんけれど」  黒い手袋をはめた手が伸ばされ、床に転がったオルゴールを持ち上げる。鳴り続けていたかわいらしい調べは、パタンと蓋が閉じる音とともに消えうせた。  次第に強くなる夜明けの光を吸った小部屋に、シャロルが喉を詰まらせて苦し気にうめく声だけが響く。  黒蜘蛛の君は無言のまま、シャロルのかたわらに膝をついた格好で、しばらく動かなった。  シャロルは喉を押さえながら、なんとか頭をねじる。  ――黒蜘蛛の君が心配だった。  苦しんでいるのはきっと彼女の方。そして苦しむ顔を誰にも見せることなく、“悪”の姿をかかげ続ける。  彼女にはそうすることしかできない。それはよく分かっている。  シャロルはなんとか視線を上げ、黒蜘蛛の君の伏せられた顔を見上げた。  伏せられた金色の瞳が、朝陽を受けてきらめく。  そうして透明な雫が一筋、真紅の髪に囲まれた白い頬を伝って流れ落ちた。 「……あなたを素敵な子だと言ったのは、本心だったわ」  黒蜘蛛の君が、消え入るような声で言った。
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