32. 黒蜘蛛のシナリオ:終幕

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 (ひる)になって予定通りに学園に戻ってきた王子を迎え、予定通りにサプライズパーティーが催される。  紙吹雪が舞い散る中、フレデリック王子はぽかんと口を開けて佇んでいる。講堂の正面扉を開け、花束らしき紙包を片手に持って一歩踏み出した格好のまま、石にでもなってしまったかのようだ。  次第に、手作りの装飾がなされた講堂の様子と、口々に投げかけられる「おかえりなさい、殿下」との声が把握できたのか、王子は何度も瞬きを繰り返して頬を緩めた。 「――わぁ、あ……困ったな、言葉が出てこない」  一文字ずつ噛みしめるように呟いた王子は、感激を抑えきれない表情で自分を囲む生徒たちを見回した。 「僕のために用意してくれたの……?」 「もちろんですわ」  黒蜘蛛の君が王子の前に歩み出る。黒のリボンで飾られた白のワンピースに、豊かな紅い髪を波打たせて頭の片側に垂らしている。腰の前に組んだ手には、王子からプレゼントされたエメラルドの指輪が嵌められていた。 「お帰りなさい、フレディ」  黒蜘蛛の君は優しく微笑むと、王子の頬にキスをする。 「あなたに喜んでほしくて、みんなで用意しましたのよ。いつも驚かされてばかりいるから仕返ししてやろうと思ったの。これであなたから一本取り返しましたわね」  いたずらっぽく笑った黒蜘蛛の君は、切なげに眉根を寄せる。 「……計画を隠そうとして、さみしい思いをさせてしまったのは分かっているわ。どうか許してちょうだい。あなただって……わたくしに同じ思いをさせたのよ……?」 「イリア……」  王子が顔をほころばせたかと思うと、おもむろに黒蜘蛛の君を抱きしめた。 「いいんだ。ごめん、僕の方こそ……自分のことばっかりで……」  黒蜘蛛の君は王子の背中をさすってやる。  出かけている間、さぞや不安だったことだろう。イリアナスタに捨てられるのではないかという疑いを拭えぬまま、王子としての己が両親や民を欺くことになってしまうことが恐ろしかったはず。  強く怯えていたからこそ、今このときの安堵もいっそう確かなものになる。  心配する必要はなかったのだと。イリアナスタは王子の隠し事に怒っていたけれど、こうして“仕返し”することで許してくれたのだと。 「――大丈夫よ、フレディ」  黒蜘蛛の君は王子の耳元で優しくささやいた。 「わたくしが付いてるわ。あなたに必要なのはわたくしだけ……」  王子もまた、イリアナスタの存在を失うのがいかに恐ろしいことなのかを理解していることだろう。  抱き合う王子と婚約者を囲む生徒たちは、その美しい光景にすっかり見とれていた。  誰一人、二人の愛情に水を差す者などいない。無邪気な夢想家たちは、非の打ちどころのない美男と美女が結ばれる様をただ賞美している。計算高い黒蜘蛛の君の従者は、彼女が王権の一端を負うことによる己への利益を期待している。どちらでもない者には、黒蜘蛛の君は単純な褒章を約束してあった。王子が戴冠するとき、二人が婚姻を結ぶとき、黒蜘蛛の君が卒業するときに、二人の仲を取り持ってくれた生徒たちには手厚くお礼をすると。  数秒の間があって、ようやく気を落ち着けた王子が体を離した。  皆はいざ宴を始めようと広間の中へ進み入る。  王子がふと思い出したように手に持った花を見やり、黒蜘蛛の君に声をかけようと口を開いた――そのときだった。 「ミス・ヴィドワ!」  激しい口調で黒蜘蛛の君を呼ぶ者がいた。  ヒロ・ミーチャムが勢いよく講堂に駆け込んで来たのだった。  ヒロは息を切らせながら、ざわめく生徒たちの間を縫って黒蜘蛛の君のもとに歩み寄る。  きょとんとした王子が「どうしたんだい?」と能天気な声を上げたが、ヒロは王子には見向きもせずまっすぐに黒蜘蛛の君を見据えた。 「シャロルに……なんてことをしたんです!」  呼吸を整えながらヒロが叩きつけたのはそんな言葉だった。いつも伏し目がちで控えめな彼に似つかわしくない、激しい視線とともに。  黒蜘蛛の君は平静を崩さなかった。 「ミス・クロイツがどうされたのかしら? 確かに姿が見えないようですけれど――」 「彼女は医務室です」  激情を押し殺したようなヒロの低い声に、黒蜘蛛の君は唇をつぐむ。王子が目を見開き、言葉を失ってヒロと黒蜘蛛の君を見比べる。  黒蜘蛛の君は黙ったまま、ヒロの語りを止めはしなかった。  ヒロが言うには、今朝からシャロル・クロイツの姿が学園のどこにも見当たらなかったらしい。  寮室にはもちろん、テラスや食堂にも、図書館にも、北棟にも別棟にも、教会にも、裏庭にも、彼女が赴きそうな場所を探し回ったけれど、本人の姿がないどころか、見かけたという人すらいなかった。  王子のためのパーティーの準備をしている講堂も探した。  そこでもやはり手がかりはなかったものの、ヒロは意外な人物に出くわしたという。  アンリ・コルティーアだった。ラボリニー先生にパーティーに招待してもらったのだという彼女もまたシャロルを探していたが、やはり一向に見つからないらしい。  ヒロは嫌な予感を募らせていた。  と、アンリが講堂の近くにある古い鐘塔の存在を指摘した。  半ば投げやりに思いながらも入り口を見てみると、扉枠の土埃に擦れた跡があった。つまり、最近扉が開けられたということだ。アンリが古い南京錠で閉じられた扉をこじ開け、二人は中に入った。  塔を上った小部屋に、果たしてシャロルがいた。  ヒロとアンリは床に倒れ伏して苦しんでいるシャロルを連れ出し、医務室に運び込んできたのだという。 「――シャロルは鼻腔や喉をひどく腫らしていました。原因はこの毒花です。この花の粉が、シャロルの倒れていた場所に残っていました」  ヒロが手に持った赤紫色の花を突き付ける。  黒蜘蛛の君は首を傾げて冷静に問い返した。 「それは大変なことですわね。けれど、あなたが花を持っているということは、ミス・クロイツに毒を含ませたのもあなたなのだと自供しておいでなのかしら?」  肩をいからせたヒロは、ルームメイトのブレットから事情を聞き出してあると主張した。ブレットがヒロの部屋にこの花をこっそり忍ばせるよう頼まれ、実行したのだという。 「まさか、わたくしが彼に頼んだとでも言いたいのかしら?」 「実際に毒花を持って頼んできたのはミス・マキヴェリエだそうです。ですが、彼女があなたの侍女であることは誰だって知っている――」 「毒花だなんて!」  口を挟んだのは、黒蜘蛛の君の背後でおろおろしていたアリヤ・マキヴェリエだった。 「し、知らなかったの! ヒロがその花、好きなのだと思って、私……」 「あなたがそう吹き込んだんだ」と、ヒロはアリヤを相手にせず、黒蜘蛛の君に向かって話し続ける。 「実際に行動したのはミス・マキヴェリエなんでしょう。でもあなたが裏から糸を引いていたんです、いつもと同じ、あなたのやり方だ!」  風変りな秀才のヒロのことは、ここにいる生徒のほとんどが知っているだろう。だが彼がこんなにも感情をあらわにする様子は、誰も目にしたことのないものだった。  彼が剥き出しにした怒りを向けている相手は、あろうことか黒蜘蛛の君だ。  賢い彼の口にした言葉は、きっと真実に違いない。だがそうだとしたら黒蜘蛛の君は――。  ヒロの告発によってこの場にいる誰もが心乱している。  一人、黒蜘蛛の君を除いて。 「ミスター・ミーチャム、あなたは合理的な人間だと思っていましたのに、失望しましたわ。わたくしを衆目の前で貶めるのがいい気分なのかもしれませんが、あなたの推理が拠って立つのは都合のいい妄想だけでしょう? わたくしがあの子を傷つけたと、どうやって証明なさるおつもり? ああ……ミス・クロイツ本人に告発してもらえばいいのだわ。皆を陥れたのは誰なのか、素直で正直なあの子なら本当の悪者を教えてくれるはず」  薄笑みを浮かべる黒蜘蛛の君が、毒を含んだというシャロルを心配していないことは明らかだった。  ヒロは歯噛みしていた。  シャロルの容態は決して良くない。毒の作用が死に届くのにまだ猶予はあるものの、解毒できる成分が医務室にあるかどうか。街の薬屋を当たるにもそう簡単ではない。  この強力な毒花は、同種の別の花で解毒できることで知られているが、毒花も解毒作用を持つ花も、本来この地域では栽培しにくいもの。黒蜘蛛の君とて、それを分かった上でこの花を選び、わざわざ裏庭で育てていたに違いないのだ。 「解毒薬を渡してください」  ヒロは手を突き出した。 「毒を作ったのならば、解毒薬も持っているはず」 「おっしゃっている意味が分かりませんわね」 「今、アンリがあなたの部屋を探しています。そこになければあなたが今持っているはず」 「そんなものはどこにもありませんことよ」 「証拠だってきっと手に入る! そうなればあなたを救うのはシャロルしかいないと、お分かりでしょう?」  ヒロが叫ぶように言って、黒蜘蛛の君に詰め寄った。 「シャロルが助かれば、彼女はきっとあなたを許します。ですが、シャロルがもし死んだなら……誰も、あなたを、許しません」  黒蜘蛛の君は後ずさりせず、黙ってヒロをまっすぐに見つめ返す。冷たく光る金色の瞳には少しの揺らぎも見いだせなかった。 「……シャロルが、死ぬ?」  静寂の中、フレデリック王子がかすれた声を上げた。  黒蜘蛛の君をにらんでヒロが小さく息をつき、王子に向き直った。 「あなたが気づくべきだったんです。あなたはシャロルの力になれると……そう思っていたのに。結局あなただって、黒蜘蛛の操り人形だったんだ」  顔を硬直させた王子は唇をわななかせるばかりで何も言えずにいる。  と、王子が手にした花をきつく握りしめるのを見たヒロが、ハッと息をのんだ。 「その花……」  ヒロは王子に駆け寄り、その手から花をひったくる。  白い花弁の大きな花。ヒロはそれを穴が開くほど見つめながら「これをどこで?」と王子に尋ねた。  王子はぱちぱちと目をしばたたき、赴いた聖地に咲いていたのだと返事をする。美しい花に不思議と心惹かれ、プレゼントしようと思って摘んで来たのだと。 「これなら解毒薬になる。これならきっと……」  ヒロはそう呟きながら、花を握って駆け出していた。  王子もつられるように足を踏み出し、動きを止める。何も言わぬまま平然と立っている黒蜘蛛の君を見やると、悲し気に眉根を寄せた。 「……ヒロが言ったことは、本当なの?」  黒蜘蛛の君は静かに息をついた。  すべてがうまく噛み合った。すなわちこれが、正しい幕引きだということ。  シャロルは見つからぬまま塔で息絶えていたかもしれない。見つかったとして、都合よく解毒薬の材料など手に入らず命を落としていたかもしれない。ヒロは部屋に隠されていた毒花に気付かず、シャロルを服毒させた犯人だと思われたかもしれない。王子はシャロルの死を嘆き、それでも黒蜘蛛の君を信じ続けられたかもしれない。  そうはならなかった。今ここにあるのは、従うべき運命の結末。 「――ミス・クロイツは鐘塔で見つかったとのことでしたが」  ぽつりと声を上げたのはローザ・クェンテルだった。 「黒蜘蛛の君……今朝方、塔においででしたよね? おそれながら、塔の方から戻ってこられるお姿をテラスから見ておりました。何をなさっていたのかは存じ上げませんが……何か、黒い箱をお持ちでしたね」  常と同じく小憎らしい口を利くローザに、黒蜘蛛の君は無表情のままゆっくりと瞼を閉じる。内心、笑みを浮かべていた。  ローザはまったく賢い娘だ。意識してか否か、この学園での黒蜘蛛の君の終幕を悟り、引導を渡す仕事に一役買おうとしている。  おもむろに瞼を開いた黒蜘蛛の君は、今にも泣きそうな顔をしているフレデリックを見やった。 「――あの子が心配ではありませんこと? 早く様子を見ておいでなさいな」  猫なで声でささやいて、にっこりと笑いかける。 「あの花は、あの子への(・・・・・)プレゼントだったのでしょう? あなたの手で渡してあげるがよろしくてよ、殿下」  冷たく投げかけられた言葉に王子は顔を歪めると、何も返事をせず駆け出して行った。  彼を見送った黒蜘蛛の君は、その場に残る全員をぐるりと見渡す。  誰もがひどく衝撃を受けている。先ほどまで王子と黒蜘蛛の君の仲睦まじい様子を喜んでいた能天気な連中も、理解はしているようだ。  黒蜘蛛の君が、ヒロの告発を否定する気はないということを。 「放っておけば咲き誇る。水を遣らずとも雨で育つ。摘んで捨てても、他の誰かが植え替える。そうして存在する限り、すべての幸福を奪って吸い上げ肥えていく。何をしたとて、所詮わたくしでは勝てなかったということね」  黒蜘蛛の君は吐き捨てるように言いながら、優雅に歩いて講堂の入口へ向かう。 「お覚悟なさいませ。罪を認め罰に甘んじるか、あるいは世の理を否定するか。――わたくしには、関係のないことだけれど」  誰に向けた言葉か、講堂全体に響き渡る声で黒蜘蛛の君は堂々と言い放つ。  そうして紅い髪を翻し、せせら笑う声を残して立ち去って行った。  ――それきり、黒蜘蛛の君は学園から姿を消したのだった。
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