四 悲運の皇子、憎しみを連れて……

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屋敷に1人で居ると柄にもなく色々と考え込んでしまい疲れる。水でも飲んで落ち着こうと厨へ向う途中に玄関の前を通ると、外から扉が叩かれた。 「はい、どなたですか~?」 努めて明るい声で扉を開けると、そこには見知った顔があった。 「よう、仲権(ちゅうけん)。久し振りだな、元気にしていたか?」 「おじちゃん……、」 おじちゃんこと、夏侯尚(かこうしょう)は同族の一人である。若い頃から秀才としてその名は知られ、その上武勇にも長ける。皇帝・曹丕と懇意な間柄であり、夏侯覇も信頼を置いている人物だ。 「今帰りでな、近くを通ったから寄らせてもらったが……、よかったか?」 「勿論だよ、お茶でも淹れるから入って」 「悪いな、気を遣わせて」 「いいよ、俺も誰かと話しをしたい所だったし」 「……そうか、」 夏侯覇の後ろに続きながら夏侯尚は静かな邸内をぐるりと見回す。許昌の屋敷を知っているだけにその差を激しく感じられ、前を行く少年がひどく不憫に思えた。 「使用人、住込みじゃあないんだな。夜、一人は大変じゃないか?」 「んー? まぁ、許昌の時も使用人は通いだったし、やっぱりお手伝いさんも自分の家で家族と過ごすのがいいんじゃないのかな~って思って。……おじちゃん、座ってて。今お茶持ってくるから」 「ああ、すまない」 応接間に通され、椅子に腰を掛けると同時に小さな溜息が出る。そして、一人は淋しいんじゃないか? そう聞かないでよかったと夏侯尚は思った。 程無くして、夏侯覇が2人分の湯飲みを持ってやってくると、とりあえず互いに簡単な近況報告を始めた。それが一息つくと、夏侯覇はそういえばと思い立つ。 「おじちゃん、遅くまで仕事してたんだね。何か立て込んでるの?」 「いや、別にそういうわけじゃない。ただ曹丕様と話し込んでしまってな……、」 「……へぇ、」 抑揚のない返事は無自覚に曹丕を苦手としている為だった。あの禅譲騒ぎさえなければ許昌の屋敷で兄弟と暮せていたのにと心の片隅で思っている。 それに夏侯覇は曹操の功臣・夏侯淵の息子である。曹操は漢室に敬意を払い、家臣の礼を取っていた。それが曹丕はその真逆で、漢室を滅ぼして取って代わってしまった。父は曹操の為、延いては漢室の為に戦っていた筈なのに肩透かしを食らった様で釈然としない。 その不満を機敏に感じ取った夏侯尚は諭す様に様に言う。 「いいか、仲権。蜀の劉備などは曹丕様が無理に帝位を奪った様に言うが、それは誤解だ。戦乱における禅譲という行為は極めて穏便なものだ。漢室の影響がなくなった今、これが続く事は余計な争いを増やすだけに過ぎない。それならばいっそバッサリと切ってしまった方がいい。……それにこれは曹操様が生きていれば必ずやっていた事さ、きっと」 「曹操様が?」 「……これは俺の考えだが、禅譲において殆んど混乱が見られなかった点や、その後直ぐに九品官人法(きゅうひんかんじんほう)が施行された辺りを見ると曹操様の時代から準備が進んでいたとも考えられる」 そこまで言われると夏侯覇の曹丕を見る目も変わってくる。死んでしまった父親の志を汲もうとしている曹丕が立派に見えて、自分が矮小に思えた。 「曹丕様は力も才覚のある方だ。先の関羽討伐の際には曹操様不在の許昌を守り抜き、魏諷(ぎふう)の乱を未然に鎮圧してみせた。それに古くから王朝の衰退を招く原因となっていた宦官の地位に上限を設けた他、官吏の採用には才能を第一とし、病人や困窮者には食糧を支給するなど統治に関しては曹操様より腕はあるだろう」 「……そうだったね、」 疑いと不満だけに支配され、曹丕の善行を見失っていた自分を夏侯覇は恥じる。 「だからお前も曹丕様を支えてやってくれ。あの方こそ、この天下に平和をもたらす人物になるだろう、きっと」 「平和、」 それはかつて父が望み、叶えられなかった唯一無二の願い。 ――父さん、せめて心だけは救ってあげる。だから、いつか俺がそっちに行った時は誉めてほしいな 淋しいとか、腑に落ちないとか、夏侯覇はそんな事もうどうでもよくなっていた。ただ求めるは平和な天下のみで、その志があるだけでまだこの先一人でも戦っていける気がした。 ***
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