旧版 わたしまでの距離

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 ねぇ、パパ。ママとの記念日のことを覚えている?   そうわたしが問いかけると、パパはいつも忘れたふりをする。  でもね、わたしはしっかり覚えているんだからね。  パパとママの特別な記念日の朝、パパは思いっきり寝過ごした。  わたしはパパが慌てて飛び起きてキッチンに飛び込んでくるのを笑いをこらえて見ていた。「なんでこんなことになったんだよぉ」と今まで聞いた中で一番情けない声で言いながら、パパはぼさぼさの髪のまま何から身支度していいのか忘れてしまったようにおろおろしていた。 「まずは顔を洗ったら?」  わたしがそう言うと、パパは慌てた様子でバスルームに飛び込んで、バシャバシャとすごい勢いで顔を洗って、髪までずぶ濡れになって出てきた。パパだけじゃなくて床までびっしょびしょ。パパがこけたりしないようわたしがこっそり拭いておく。パパの娘になるのも大変なのだ。 「服、服、服、服」  クローゼットの前でおろおろとするパパのためには、さすがのわたしも呆れちゃう。記念日なんだからちゃんと前日に用意しておけばいいのに。でも、パパが着ていく服はもう決まっている。ため息をついて、そっとその服を揺らす。春らしいベージュのジャケットに、ママが好きな色のタイを合わせる。 「遅れる遅れる。あ、あれ? スマホどこだっけ?」  今度はベッドの上のものを全部放り投げてスマホを探し出す。  あぁ、せっかくのジャケットがヨレヨレになっちゃう。  慌てるにもほどがある。 「昨日、ゲームしながら寝たからベッドの脇に落ちてるよ」  わたしの示す指の先を追うように、パパは這いつくばってベットの下に潜り込む。 「あったぁ」  よかったね。そう言いながら私は冷蔵庫をチェックする。  残念ながら冷蔵庫の中にはろくな食材がない。  仕方ないから牛乳だけでいいかしら。  わたしがキッチンに置いてあげた牛乳をパパはわたしの横から攫うように直飲みする。こらこら。ママに禁止されている飲み方だよ。 「よーし!出発」  パパが変な気合を入れて玄関にダッシュする。  あぁー、もんのすごく大事なものを忘れてる。  わたしはこれまでの人生で一番大きなため息をついて、パパの鞄に小さな箱を放り込む。パパを懲らしめるために入れてあげたことは秘密にしておく。 ※ 「遅れてごめん!!!」  僕が彼女の元にたどり着いた時、約束の時間に30分近く遅れていた。  彼女はちょっと不機嫌そうだったけれど、僕が着てきたタイを見て微笑んだ。 「いい色だね」 「そう?」 「うん!わたしの好きな色。覚えてくれてたんだ?」  彼女が少しはにかんで微笑む。 「もちろん」  このタイがクローゼットの一番上にあったから着てきたことは一生の秘密にしよう。 「ジャケットともよくあってるよ」  なんか目についたから羽織っただけなんだけど、それも絶対に墓まで持っていく秘密にしよう。  そのあとはなんとか僕の予定通り、彼女の好きなレストランに行き、僕たちのお気に入りのカフェに行き、ゆったりと夕暮れが始まる時間には僕と彼女が初めてデートをした公園を歩いていた。 「懐かしいね」  彼女が優しい声で笑った。 「うん……」  いまだ、そう思った。  そう思った時、僕はとんでもないことに気づいた。  今日必ず渡そうと思っていた彼女へのプレゼントを持ってくるのを忘れた。  ……終わった。  もう一度同じプレッシャーには耐えられない気がする。やっぱり僕には高嶺の花なんだ。諦めよう。そう思った時、僕の鞄を誰かが引っ張った、ような気がした。バランスを崩した僕の鞄から小さな小箱が飛び出る。 「あ、」  彼女が小さな声を上げ、そっとその小箱をひろいあげる。 「……ごめん」  僕がそう言うと、彼女は小さく首を横にふった。 「これ、わたしに?」 「うん。あの……僕と」  僕が最後まで言い終わる前に彼女が大きな笑顔でうなずいた。 ※  まったく、パパは本当にしょうがない。  わたしを寝かしつけるはずが、わたしより先に眠ってしまった。  仕方ないからわたしのおふとんを少し分けてあげる。  あの特別な日から5年がたった。  パパとママが結婚してわたしが生まれた。  明日の朝目が覚めたらわたしは3歳になる。  知ってる?   3歳になるまでは特別な記憶が残ってるんだ。  神様からのご褒美かな?   パパとママのために色々頑張ったんだから。  わたしはあくびをする。  3歳になったわたしは少しお姉さんになっていて、  きっと特別な記憶はとけてなくなってしまうだろう。  パパの寝顔をふりかえる。  いつも照れてちっとも覚えていないふりをするけれど、あの日のことを、パパがちゃんと覚えていることをわたしは知っているよ。  あの日からはじまったママとの1秒1秒をパパがとっても大事にしていて、それから……。あぁダメとっても眠たくなってきた。眠りに落ちるその前に、わたしは近くてちょっと遠いところから聞こえていたパパとママの声を思い出していた。  ”ほら 動いたわよ”  ”わぁ、本当だ。元気だね”  ”元気いっぱい。もうすぐ会えるね”  ”なんかこうやってなでてると、ずっと前から知っていた気がしてくる”  もう目を開けていられなくなった。 「おやすみ」  わたしが眠りに落ちる瞬間、とても優しい手がわたしの髪を撫でた。ママだ。特別な記憶がなくなってもだいじょうぶ。パパとママが出会って、それからわたしがこうして生まれて、それでね、きっと、これからもっと素敵な記憶が増えていくはずだから。  ハッピーバースデイ、わたし。  3歳おめでとう!
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