缶コーヒーはブラックで

2/5
前へ
/27ページ
次へ
 やがて他の職人も出勤してくると、現場は賑やかになってきた。四十歳の若き親方は顔に深い頰皺が刻まれた眼力のある渋い男であった。彼は来るなり、しゃがれた声で睦を呼んだ。 「睦、今日の夜飲みに行こう。十八になった祝いだ」 「いいんすか」  睦が嬉しそうな声を上げた。高校生でもある彼は今まで夜の飲み会には参加できなかった。それが今日から解禁となれば喜ぶのは当然だ。浮かれる睦に親方が釘をさす。 「でも酒は飲むなよ。今は色々うるせーから!」 「わかってます。あの、八戸さんも呼んでください」  突然名指しされて、その場がざわついた。  職人と現場監督の関係はあくまで別会社の取引先だ。プライベートで飲みに行くことは少ない。この現場は職人たちと仲良くやっている方だが、飲みに行くほどの仲とは言い難い。  八戸はしどろもどろになりながら、行かずに済む理由を探した。 「で、でも……、星野くん学校は?」 「今、冬休みです」 「そっか。でも俺、仕事がたくさん残ってて遅くなるかもしれないし……」 「八戸さん、俺の誕生日、祝ってくれますよね?」  笑ってはいるが圧力がすごい。第一、『むつきゅん』にそんなことを言われてしまっては、嫌とは言えなかった。  * * * (……とは言ったものの……)  飲み会があるからといって定時に帰れるほど、八戸の仕事は甘くない。現場が終わった後、積み上がった書類を必死になって片付けたが、会社を出たのは九時を回ったところであった。朝の早い職人たちはもう解散していてもおかしくなかった。もし間に合ったとしても顔だけ出して帰るような形になるだろう。頼まれたのが睦でなければ、適当に理由をつけて断りたいところだ。  着いた居酒屋は駅前の大型チェーン店だ。受付で名前を告げると座敷席へと通された。馴染みのある声が聞こえてきて、酒盛りがまだ続いていることを知る。 「遅れてすみませ……」 「八戸さんーっ!」  靴を脱いで座敷に上がった途端、誰かにきつく抱きつかれた。細いくせに鉄のように硬い身体。見上げると頰を赤く染めた睦が緩んだ笑みを浮かべていた。 「む……むつきゅ……星野くん!?」  あっぶねぇ! むつきゅんって呼ぶところだった!  八戸はまだコートも脱いでいない状態だというのに、睦は大きな猫のようにごろごろと甘えてきて八戸を離さない。嫌という程、彼からアルコールの匂いがした。 「遅いですよぉ」 「星野くん、まさか……飲んでる?」 「飲んでないですよ」 「いや、飲んでるよね?」  低い声とともに鋭い視線を投げると睦の緩んだ笑顔が固まった。このご時世、会社がらみの飲み会で未成年者に酒を飲ませれば大変なことになる。少なくとも八戸の会社では始末書ものだ。しかし八戸の焦りなど御構い無しに職人たちは呑気に飲んでいる。 「親方ー、八戸さん来ましたー」  誰かが一番奥の席にいる親方を大声で呼んだ。そこには普段の厳しい雰囲気とは程遠い陽気なおじさんがビール瓶を掲げて挨拶をしてきた。しかし八戸はその挨拶を怒声で返した。 「佐竹さん、どういうことですか! 星野くんに飲ませて、何かあったらどう責任を取るつもりですか」  和やかだった宴会が一気に静まり返った。近くに座っていた若手の職人がぶすっとした態度で肘をついた。 「責任ってそんな大げさな……」 「大げさじゃありません。これがバレたらお店にも会社にも迷惑がかかりますよ」  親方を含めた全員がきょとんとした顔でこちらを見ている。状況を飲み込めていない彼らを放って、八戸は睦の腕を取った。 「星野くん、帰ろう。家まで送るから」 「でも……」 「でもじゃない!」  何か言いかけた睦を封じ、帰り支度をさせて店を出る。怒りのあまり、彼の腕を引いたまま繁華街を歩いていく。行き先はタクシー乗り場だ。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

210人が本棚に入れています
本棚に追加