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缶コーヒーはブラックで
現場監督の朝は早い。八戸啓介はヘルメットの中で眩い日の出に目を細めながら、原付のハンドルを回した。
上下一万円の安物のスーツの上に羽織った作業衣が風で膨らむ。
時刻は六時半。
住宅地をしばらく走っていくと建物の基礎がむき出しになった現場が見えた。ここには十戸の新築住宅が並ぶ予定だ。そこの資材置き場にはすでに仕事の準備を始める人影があった。
濃紺のブルゾンを羽織った若い男は鼻筋が通った鋭い眼光をこちらに向ける。どこか近寄りがたい雰囲気が漂っていたが、原付を止めた啓介に気づくとはにかんだ笑顔を見せたのだった。
「おはようございます、八戸さん」
「おはよう、星野くん」
(今日も可愛いなぁ。むつきゅん)
彼は星野睦。彼はこの現場で最年少の職人であり、定時制高校に通う十七歳。そう、本物のDK《男子高校生》だ。人並みよりもひとつ頭大きい背に、いくら食べても太らないであろう薄い身体。八戸のこの現場でぶっちぎりで好みの体型だ。もちろんブルゾンの奥のTシャツを剥けば、引き締まった筋肉が覆われていることもしっかりチェック済みだ。
朝早く起きて彼と会話することが一番の楽しみだった。
爽やかに挨拶しているが、頭の中はやましいことでいっぱいである。睦だってまさか目の前の男に勝手に「むつきゅん」というあだ名をつけられ、脳内で薄い胸筋に頬ずりされているとは思っても見ないだろう。
「君は相変わらず真面目だね」
「そんなことないすよ。早く来て、八戸さんと話したいだけです」
どこか隙のある幼い笑顔に胸を撃ち抜かれた。このギャップ、可愛すぎる。
(やべぇ、掘られたい)
出会ったのが職場ではなく、そして相手が未成年でなければとっくに口説いている。
「ジュース飲む?」
ついそんな言葉が溢れてしまう。すぐそばの自販機を指差して甘やかそうとしたが、どうやらお気に召さなかったようだ。睦の表情があからさまに曇った。
「なんか子供みたいな言い方すね」
「そうかな。普通だと思うけど」
「他の人にはコーヒー飲むって聞くでしょ? ジュースって……」
睦があまりに深刻な表情で言うので、思わず吹き出してしまった。指摘されるまでそんなこと考えたこともなかった。若い人の心はなんと繊細なんだろう。
「確かにそうだね。細かいところに気づくね、君は」
そんな言葉でお茶を濁して自販機の前まで来ると硬貨を入れて後ろの彼を振り返った。
「ほら、なんでも好きなもの選んで……え」
言いかけた言葉が喉元で止まった。殺気を帯びた睦の顔が目前に迫っていたからだ。背後の自販機に手をつき、頭一つ大きい彼が背中を丸めてこちらを見つめている。
やべ、殴られる。
直感的にそう悟ったが、拳は飛んでこなかった。彼は相変わらず怖い顔をして目の前で静止している。やがて、眉間にしわを寄せたまま口を開いた。
「あの、八戸さん。俺……、昨日十八になったんすよ」
「……は、はい。おめでとうございます」
「だからもう子供じゃないんで」
視線を繋いだまま、睦はボタンを押した。背後で明るい電子音と同時に缶が落ちる派手な音がする。それだけで八戸は心臓が飛び出そうになった。
(怒らせちゃったかな……)
膨れた顔のままコーヒーを取り出す横顔を見て不安になる。しかし、彼はそれ以上は何も言わずにその場から離れていった。その片手には真っ黒の缶コーヒーが握り締められている。
子供じゃないと言って缶コーヒーのブラックを選んだ彼の背中を見つめながら心の中で呟いた。
(やっぱり子供だなぁ)
可愛らしさに頰を緩め、八戸は自分の分のコーヒーを買うとその後を追った。
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