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太陽は何を思っているのだろうか。何を思ってあの熱を地球に贈り届けているのか。武本悠一は頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
もしかしたら太陽は自分の熱に飽き飽きしているのかもしれない。いつしか生まれて、その時から熱を放出して約40億年。もううんざりなのかもしれない。あの太陽光は溜まりに溜まった鬱憤、それを地球は優しく迎え入れているのだ。それか、あれは涙かもしれない。自分の熱さに嘆いて、涙を流している。それを地球が受け入れている。
だとしたら地球は随分損してるなぁ、武本は心の中でそう呟いた。人の少ない教室で、担任の仲川輝司が黒板に向かって文字を書いていた。反響の少ない室内でチョークが磨り減っていく音がじんわりと溶けていく。まるで太陽光がコンクリートを焦がしているようだった。
夏期講習に訪れているのは6人程度。受験まであと1年だと口癖のように言う仲川は自ら校長へ頼み込んで夏期講習を開いたのだ。自由参加とは言っているが、妙なプレッシャーを皆感じているのだろう。1週間ある中で皆1日は参加している。貴重な夏休みをこんなことに割くのはなぁ、友人の葛城が嘆く声が頭の中で再生される。武本は夏期講習4日目、毎日訪れていた。
正直な話、武本は葛城と同意見だ。やりたいゲームは溜まっているし、一度は昼まで眠っていたい。そんな思いがありながら、武本は夏期講習が始まる9時前には教室に入っている。
それは全て大田みのりがそこにいるからだ。
ちょうど彼女に惚れて1年になる。去年の夏期講習終わり、学校の近くにある図書館へ寄った時だった。どうせなら夏休みの宿題をここで半分済ましてしまおう、そんな真面目な思いが功を奏したのだ。
フリースペースで本を読む彼女は、制服姿だった。薄い水色のワイシャツの袖からは白く透明な肌が覗き、首元にスカートと同じ柄のリボンがあった。薄い格子柄の裾は彼女の膝小僧を隠している。
ぷっくりとした鼻に薄く少しだけ尖った唇。程よい丸顔に薄い涙袋が彼女のぱっちりとした目を支えていた。おそらく解いたら胸の上までありそうな黒髪を束ねている。武本はあの髪型が好きだった。
違うクラスだったが、夏休みを終えて、武本は彼女を目で追うようになっていた。だから2年生のクラス発表がされた時、武本は誰もいない場所で大きなガッツポーズをしていた。彼女と1年間、クラスメイトという関係性で生きる喜びをひしひしと感じている。
何度か言葉も交わした。武本の女友達が彼女と談笑している時にチャンスを伺って、なんとか絞り出したギャグに、大田みのりは笑っていた。どこかミステリアスな雰囲気を漂わせる彼女は目立つ存在ではなかったが、友人と話している時は白い歯を見せてくしゃっと笑うのだ。その笑顔が武本には嬉しかった。
今、自分は彼女とどういう関係なのだろう。友人、クラスメイト、もしかしたら何故か話しかけてくる鬱陶しい存在だと思われている可能性もある。武本はいつも一歩踏み出せずにいた。
「じゃあ、明日も来るように。今日はここまで。」
ふくよかな体型の仲川が教壇から降り、武本を除く5人が帰宅の準備を始めた。時刻は13時半、真っ白なノートを閉じて、武本は薄い鞄に放り込んだ。
密かな楽しみはここからだ。
彼女の家がどこにあるかは知っている。ストーカーのように聞こえるかもしれないが、彼女の住む家は高校の前に流れるような大きな車道の向かい側にそびえる焦げ茶色のマンションに住んでいるのだ。彼女を知る前から、近いところに住んでいる人もいるんだなぁと思っていた。
高校の最寄駅から自宅に近い最寄駅は1本だった。20分ほどで到着し、自転車で自宅まで帰る、そんなルートだ。
携帯を操作して時間を潰す。ちょうど20分で到着した最寄駅から降り、近くのファーストフード店に入る。いつものセットは500円以内で購入出来る。なるべく時間をかけて咀嚼し、14時半を目指して完食する。作業のような昼食を済ませ、武本は足早に店を出た。時間はいつも通り、先程乗っていた車輌とは反対側のホームへ向かい、やってきた電車に飛び乗る。向かう先は高校の最寄り駅だ。
太陽光は未だ熱を放って地面を刺していた。逃げるように生き急ぐ人々の波に逆らい、商店街を抜けていく。計6車線の真横を歩いて高校の前を通り過ぎた。1時間半前まで退屈な夏期講習をしていたこの建物が空っぽな箱のように思えて、武本は少し笑って俯いた。
大きな通りを抜けて右に曲がると住宅街に入った。もちろん1軒1軒確認を取っているわけではないが、自分の知らないところで人が生活を送っているのだ。なんだか不思議な気持ちになる。それぞれの人生が街に根付いているのだ。
段々と汗ばむ中、武本は目的地にたどり着いた。2階建の図書館は人気が少なく、ゆったりとした時間が流れていた。全員がスローモーションになってしまうような魔力がここにはあるのかもしれない。
エントランスをくぐり、受付をすり抜けた。奥に並ぶ本棚は何十億という文字を閉じ込めている。人が血の滲む思いで書き上げた、息子のような愛情を捧げた作品がきちんと整理されているのだ。
さらなる目的地は本棚の奥、フリースペースだ。勉強に勤しむ学生もいれば、穴が空くほど新聞を眺める老人もいる。16人掛けの長机には人が点々としていた。本棚の隙間から目をやると、大田の姿はなかった。まだ少し早かったのかもしれない、武本は空いた席に薄い学生鞄を置き、武本は自分の趣味に没頭することにした。
きっかけは葛城だった。大学3年生にもなる彼の兄はアダルトビデオを弟に回していて、時折武本も見せてもらっていた。
そんな学生らしいエロを追求していく武本は官能小説に行き着いた。
映像や漫画のように派手ではなく、エロを表現するのは活字のみ。その制限された範囲内でアダルトビデオよりも妖艶に、どの作品より言葉にできない美しさが官能小説にはある。葛城はこれじゃ抜けないと言っていたが、まだまだ子どもである。官能小説は性的欲求を満たすものではない、エロスをじっくりと堪能するものだ。官能小説でオナニーなど愚行というわけである。
今日読むのは新作だった。叶慶一の『海を見た夜』は直木賞を受賞した彼が2日で書き上げたという。そのスピードとストーリーの完成度から、速文家という異名までついていた。
満月が水面に映る風景が表紙になった一冊を手に取り、武本は席に戻った。さて、官能の世界に没入しよう。
やはり叶は天才だった。出だしから既に掴まれてしまう。海辺に佇む女性に見惚れた主人公が彼女の魔性な一面を笑顔の陰に見る、これを2日で書き上げるなんて、普通の人間じゃない。
時間を忘れて武本はページを捲っていった。叶の世界観はずぶずぶと引き込まれていく。裸体の表現方法、性行為の細部に至るまで、未だ童貞の武本には刺激的であり、優しく包み込んでくれる。
「それ、海を見た夜だよね。」
突然左耳から小さな声が聞こえる。官能小説を読んでいる時に女性から声をかけられるというのは、自慰行為がバレるのと同義だった。右手で口を抑えて声を殺し、声のする方をゆっくりと振り向いた。
大田みのりは夏期講習の時と同じ学生服姿だった。甘いシャンプーの香りが鼻に薄く漂う。ぱっちりとした目に武本の間抜けな顔が映っていた。彼女の美しい顔が今までにない距離感にある、それだけでも沸騰してしまいそうだったが、武本は彼女の言葉が気になっていた。
「え、大田さん知ってるの。」
武本は女性と話すのが得意ではない。だからあまり会話をしたことない女性にはさん付けなのだ。自分でも悪い癖だとは思っているが、呼び捨てにするあと一歩が踏み出せないのだ。どうも闇に近い深さの崖があるようで、深淵を覗いてはやめるを繰り返す。大田は上唇で口元を覆うようにして微笑み、小さく頷いた。彼女は近くで見るとより良い肉付きだった。決してスリムとは言えないが、付くべきところに弾力のある肉がある。頷いた時に生じる小さな二重顎までもが愛おしかった。自分は丸顔を好む傾向にあるのだろうと感じていた。大田は左隣の椅子を下げ、真横に腰掛けた。神がいるのならこのまま液状化してくれ、武本は心の中でそう呟いていた。大田は学生鞄を机の上に置き、声のボリュームを落としながら言う。
「それ面白いよね。時に中盤の…あ、これ言ったらネタバレになっちゃうか。」
ふふっと少し笑い、小さな手が彼女の口元を隠した。小声でもよく分かる彼女の甘い声は程よく鼓膜を撫でてくれる。武本も彼女に合わせたボリュームで笑う。
「それが好きなら、これもオススメだよ。」
彼女が小脇に抱えていた本が武本の前に滑り込む。握られた両手のアップが表紙になった透明感のある雰囲気を放っていた。両手に被る『妻の音』という字が目立つ。まだチェックしていない作品だった。
「岸野達治ってベテラン作家の作品なんだけど、何がすごいって、その時代に合わせたスタイルとか性癖を取り入れているの。常にこの人の作品は進化し続けているんだ。」
へぇと声を漏らして武本は妻の音を手に取った。少々厚めではあるが、ページをぺらぺら捲って確信した。これは確かに面白い。どうやら武本に火がついた、ここは自分のおすすめ作品も紹介しよう。
「大田さん、ちょっと待ってて。」
少し慌てて席から立ち、武本は推理小説コーナーに走った。作家の名前順に並んだ大量の本をなぞるように見て、とある一冊を抜いた。フリースペースに戻って席に座り、大田の前に滑らせた。
「これは佐伯美香って人の作品で、『刑事の沈殿』なんだけど。推理小説ではあるんだけど、中盤に出てくる濃厚なセックスシーンがものすごい遠回しな言葉で表現されているんだ。とにかく例えが秀逸で、気付けば事に没頭しちゃうんだ。」
自分で言いながらハッとした。1年も恋心を抱く女性にセックスと言い放ったのだ。未だにさん付けで呼んでいるのにと後悔した。しかし彼女の反応は驚くべきものだった。小さな両手で口元を覆って、肩を震わせたのだ。
「武本くん、好きなんだね。いいじゃん、読んでみるよ。」
そう言って彼女は刑事の沈殿を手に取った。自分の好きな作品が認められた気がして、はぁと息を吐いて背を預ける。
それから2人は官能の世界にのめり込んでいった。妻の音は確かに名作だった。不感症の妻、梶田美希から女としての悦びを撮りもしてほしいと頼み込まれた旦那の梶田圭祐が様々な体位やプレイスタイルを試していく中で、夫婦仲を見つめ直し、徐々に生活が変わっていき、相手の知らない一面も見えてくる。夫婦としての幸せをあらゆるセックスで模索していくというストーリーだ。
気付けば涙腺が緩んでいた。妻が涙を流しながら股を開いて旦那を受け入れるシーンは、思わず嗚咽してしまうほどの美しさがあった。
どうやら大田も読了したようだった。ぱたんと本を閉じ、大田は武本の方を見た。
「面白かったー。武本くんいいセンスしてるね、あのシーン11ページとは思えないくらいの厚みだったよ。」
うんうんと武本は頷いた。大田に認めてもらえる、これが何よりも嬉しかった。
「俺も、妻の音最高だった。ちょっと泣きそうになっちゃったよ。」
ふふっと小さく笑って大田は武本を見ていた。彼女の目を見ていたら沈んでしまうのではないかと思ってしまう、そんな危うさが癖になりそうだった。彼女は薄い唇の端を吊り上げて言った。
「ねぇ。お互い官能小説好きなんだからさ、またこうやってオススメの本紹介し合わない?」
武本はその場で奇声を張り上げてしまいそうだった。全身を使って小粋なステップでも踏みたくなってしまう。武本は首がもげるほど頷いた。
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