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彼女は先に帰宅した。だからこそ絶好のチャンスだったのだ。自分が読んだオススメの官能小説を何冊も机の上に積んでは一度見た世界へのめり込んでいく。何が彼女の心をくすぐるのか、それだけを考えていた。 妻の音は官能小説でありながらストーリーもしっかりしていた。日常の中に官能的な一面が見え隠れしている、そんな作品だ。つまりストーリー重視。アダルトビデオとは違うのだ。セックスシーンだけ強調させているのではなく、あくまで恋愛をテーマにしたドラマの中に濃厚な濡れ場を差し込んだ、彼女にとってその流れがいいのだろう。 全てを読了した後、武本は目眩がする思いだった。しかし、これでまた明日も彼女と話せる、何故か首の皮が一枚繋がったような思いを抱え、武本は暗くなった住宅街に飛び出した。 それからの2日間は天にも昇る思いだった。夏期講習では一言も話さないが、校門を出て彼女と合流する。駅前のファーストフード店で同じセットを頼んでは官能小説の話へ。武本自身も驚いていたが、好みの女性と距離が縮まるのに必要なものは同じ趣味だという話は本当だったようだ。いつから官能小説を読み始めたか、どのような系統が好きか、さらに距離が縮まっていく。 昼食を済ませた後はいつもの図書館へ。お互いがオススメする作品を同時に読んで、読了後は感想を交換する。何よりも幸せだった。 しかしそれも終わりが来る。夏期講習は後1日だ。もちろん彼女のLINEは知っている、ただこの幸せが終わったら、もう彼女と2人きりにはなれないんじゃないか。そんな不安すら覚えていた。6日目の夕方、先に帰宅した大田の隣の席に座ったまま、明日が来ないことを祈った。 夏期講習最終日。武本は右斜め前に座る大田の背をぼんやりと眺めていた。黒板に書かれてある文字をゆっくりと書き取っている彼女と、今後話す機会はあるのだろうか。もしかしたらこの数日間は夢で、自分との関係性は泡のように弾けて消えてしまうのではないだろうか。 「はい。これで終わります。皆さん1週間お疲れ様でした。」 相変わらずふくよかな体型はワイシャツのボタンを飛ばすようで、下っ腹を右手で撫でていた。 「これから本格的な夏休みに入ります。皆さん、悔いのない日々を過ごしてくださいね。」 ありきたりだな、武本は口の中でそう呟いた。 最終日に来ていた人数は15人と、かなり多い方だった。葛城の姿はない。皆がいそいそと帰る準備を始める中、武本は教室から出て行く大田の背を見送った。 あと数時間、少し寂しい気持ちを抱きつつも時間を確認するために携帯を開いた。 『今日はすぐ図書館に行って。』 大田からのLINEは簡潔だった。なんだろうか、いつもなら昼食をとってから向かうというのに。誰にも見られていないことを確認してから首をゆっくりと傾げた。 校門を出ても彼女の姿はない。いつものフリースペースで待っているのだろうか。慣れた足取りで図書館に向かった。 常に日差しは人と地面を刺している。気温は毎日記録を更新していて、正直うんざりするほどだった。薄いワイシャツは汗で肌に張り付き、半袖をさらに捲るほど。もしかしたらもう溶けていっているのかもしれない。じっとりと肌が液状化していって、いつの間にかコンクリートの一部になってしまうのかもしれない。 ただ図書館は全てを受け入れてくれる。溶け始めた体を冷房が凍らせてくれる。日常的にサウナを体験しているようだった。視界を歪ませるほどの熱気に、人工的な冷気が気を遠くさせる。 千鳥足とはこの事なのだろうか、もちろん武本は飲酒の経験がない。ただ温度差にくらくらとしてしまう足取りはまさに千鳥足なんだろう。 フリースペースまでゆっくりとした足取りで進んだが、彼女の姿はなかった。いつも大田が座っている席には何故か思い入れが強くなっている。彼女の隣席に学生鞄を置き、武本は本棚に向かった。昨日大田からオススメされた『酸静』は中学生の男女がメインとなってくる。まだ色恋を知らない2人が甘酸っぱい恋愛を経て大人を知っていく、そんなストーリーだ。辿々しい会話からささやかなフレンチキスまで随分と長いが、妙に感情移入できてしまう。恋愛下手の武本にとって親近感を覚える内容だった。 比較的ページ数の少ない作品をぺらぺらと捲り、ようやく2人が繋がった。まだあどけない腰つきで、成熟し切っていない女性に打ち付けていく。久しぶりに1人でゆっくりと読んでいるため、武本のペニスは徐々に硬さを覚え始めていた。ここ数日は大田との本推薦に力を入れていたため、ご無沙汰だったのだ。 このままトイレに行ってしてしまおうか、そう考えていた時だった。ベッドの上でみっともなく快感を得る2人が体位を変えていく次のページを捲ると、栞のようなものが挟まっていた。真っ白な四つ折りの紙。誰かが個人的に挟んだものなのか。しかし妙に気になってしまい、一度本を閉じて小さな紙を捲った。 『2年3組に来て。』 確証はないが、運命的なものだろう。小さく丸い文字が大田のものであると知った時には、武本はすぐに図書館を飛び出していた。 ぐんぐん気温を上げていく日差しの中、汗を気にすることなく走っていく。熱を持ったコンクリートを踏みしめ、夏期講習が終わった教室へ急ぐ。誰かのいたずらかもしれない、自分に宛てたものではないかもしれない、ただ行かなくてはならないという使命感だけがあった。 この妙な違和感はなんだろうか。どこかで見た気がするシチュエーションなのだ。自分が作品の一部になった気がして、武本はさらに急いだ。 開け放たれた校門を抜け、前方に聳える校舎へ駆けていく。階段は一段飛ばしで、2階へ上がった。タイル張りの廊下の端から見ると、2年3組の扉が開いていた。太陽の光が曇りガラスに濾されて柔らかく漏れる。少し遠い校庭からは野球部の掛け声が響いていた。 荒くなった息をゆっくりと整え、3組の教室を覗いた。閑散とした室内はちょうど校舎の陰になっており、太陽光があまり入っていなかった。夕方のような雰囲気の中に、武本は小ぶりの太陽を見た。 武本の座る席から右斜め前、大田がいた。つい声が大きくなってしまう。 「大田さん、だよね?」 後ろで結んだ小さなポニーテールが揺れ、彼女は武本を見た。少しだけ尖った口先が上唇で覆われ、微笑んでいるのだと分かる。ここ数日で武本が知った、彼女の小さな笑顔だ。 ようやく自分が汗ばんでいると分かり、半袖のワイシャツをはためかせて教室に入った。彼女は再び顔を戻して言う。 「この間オススメしたさ、『タブーネバーノウズ』って作品。私が初めて読んだ官能小説なんだけどさ。その中に今と似たようなシーンあったよね。」 思い出したように武本はハッとした。イギリスを舞台にした作品で、少し難しそうな雰囲気だったが、読み進めるとすぐに没入してしまった。あの作品は巧みな会話が売りにされているが、武本が感じているのはギャップだ。ジョークを交えた主人公とヒロインの会話に、どこかくすっとしてしまう行動が垣間見える。大人なやり取りの後に子どものように単純な仕草、その落差がタブーネバーノウズの良い味になっていた。 主人公の男の子とヒロインは図書館で出会い、お互いが好む本を経てお互いを知っていく。そして今と同じようなシーンが登場したのだ。彼女の挟んだメモには『高校の教室に来て』と書かれており、主人公はすぐ走り出す。俺は今この状況なのか、大田の手で作品内に引きずり込まれたような感じがして、どこか嬉しくなった。大田は続ける。 「武本くん、机の中見て。」 確か空っぽにしていたはずだった。ゆっくりと覗いてみると、本が5冊入っている。大田が入れたのだろう、顔を上げると彼女がこちらを見て言った。 「私の新しいオススメ。今までは図書館だったけどさ、教室で読んでみようよ。」 まるで告白をされたかのようなインパクトがあった。彼女の名案に武本は頷いた。 「いいね。その方が官能的だ。」 背もたれに左腕をかけ、大田は何度か頷いた。 「でしょ。でも隣に来ちゃダメだよ、あくまでいつもと同じ席でね。」 そこも同意見だった。図書館は図書館、教室は教室の距離感、そこが良いのだ。やはり自分は大田とどこか気が合う、そんな曖昧な運命を感じながら、机の中に仕舞われている5冊を抜き出した。 大田が借りてきたのだろう、図書館のシールが貼ってあった。『羽ばたいた朝』『初夜』『時計台のラベンダー』『義姉がくれたもの』『磔』、様々なラインナップを舐めるように見て、武本はふと思った。 聞いたことのあるタイトルから、大田がオススメしてくれた作品。確かどれも内容が激しめであった。 徐々に太陽が白から橙色へと変わり、西日が校舎の陰から差し込んできた。『初夜』はお互い経験豊富な男女が夫婦となり、初夜を迎えてもなお何故か互いが接触できないという不思議な関係性となり、何日もかけて愛の形を知っていくというストーリーだ。寝室やホテル、車内から畑の真ん中まで。想像が肥えていく、場所も相まって武本は高揚していた。 充実感と共に『初夜』を読み終え、『時計台のラベンダー』に手を伸ばす。この作品は個人的に好んでいた。大田からの推薦本ではあったが、この作品に出てくるヒロインが大田と似ているのだ。ミステリアスな雰囲気から顔の特徴まで。そんな彼女が作品内で自慰行為に耽るシーンは、自分のポリシーに反してしまうほど刺激的で、ついオナニーをしてしまいそうだった。 平常心を保とう、そう思いながらもページを捲っていき、ヒロインが自宅内で自慰行為を始めた。薄いピンク色の毛布の中で、コンプレックスだという尻をあらわにし、微かな水音を響かせていく。膣口に指を当て、少しもどかしい手つきで絶頂へと向かっていく。自分でも意外なほど、集中できずにいた。 ヒロインの佐藤真奈美が開脚し、陰核を刺激していくシーンから視線を剥がし、大田を見る。椅子の下から覗く彼女の足が程良い肉付きで、佐藤真奈美と重ねてしまった。 よく考えれば、自分はエロを知ってから何度もオナニーをしている。官能小説で気分を高め、脳内にイメージを膨らませてからペニスを扱くのだ。 もしかしたら大田もオナニーをしたことがあるのだろうか。 いや、ダメだ。失礼にあたると心の中で反省し、彼女の足から視線を逸らす。無理矢理『時計台のラベンダー』の世界観に沈ませていく。ほんの少しだけぴくんと自然に動いてしまうペニスをなんとか鎮めようとしたが、無理難題だった。だからこそ彼女の声がした時、武本は図書館で初めて声をかけられた時以上に驚いてしまった。 「ねぇ、武本くん。」 大田の声はどこか震えているように聞こえた。膨張したペニスをなんとか隠そうと、『時計台のラベンダー』で下腹部を覆った。右隣に立つ大田を見上げてバレていないかどうかを見ていたが、上唇が尖った口を覆う。彼女の癖なのだろうか。 「ど、どうしたの。」 動揺もペニスも隠れていないのかもしれないと思った時には、彼女から視線を外してしまった。大田は続ける。 「武本くんはさ、オナニーするの。」 語尾は消えていきそうなほど小さく、それでいてインパクトが強い文章だった。先の尖った矢で胸を刺されたようだった。鼓動が1秒ごとに倍増していく感じがして、自分は今までどのように呼吸していたかも忘れてしまうほどだった。枯れそうな声を絞り出して答える。 「そりゃ、するけど…。」 大田さんはどうなの?とは聞けなかった。自分が自慰行為を行うという答えすら自分を殺してしまいたくなるほどの後悔だった。一気に2年3組に重い空気が流れる。野球部の声が別世界から聞こえてくるようで、段々床が液状化するのではないかと感じた。 「そうなんだ…男の子だもんね。するもんね。」 これはがっかりされているのだろうか。しかし彼女から聞いてきた質問に対して素直な反応を示しただけなのだ。これで嫌われるのは納得がいかない。どんどん小さくなった彼女の声は、次の一言で少し大きくなった。それは気のせいなのかもしれないが、武本はそう感じたのだ。 「じゃあさ、今ここでしてくれない?」 今度は脳天に竹槍が刺さったような衝撃があった。このまま体内を貫通し、椅子を突き抜けて武本の体を縛り上げているようだ。武本の鼓動は早くなっていくものの、首は固定されたままだ。大田のぱっちりとした愛くるしい目を見て呟く。 「でも、急に出来ないよ。」 それはペニスの状態ではなく、心持ちの問題だった。恋い焦がれている彼女の前で陰部を晒して自慰行為をするのは、持ち歌が無いまま3万人の前で歌えと言っているような緊張感がある。すると大田は、さらに爆弾を投げるような一言を放った。 「私もするからさ、見せてよ。一緒ならいいでしょ?」 辺りが戦場にでもなったかのような爆発音は自分の鼓動だと知った。野球部の掛け声も聞こえない、独裁的な空間が2年3組の端に生まれている。もう後には引けない、武本は顎の先を胸に深く沈めた。
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