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澪は一旦視線を足元に伏せ、暫し間を開けた後、「それが……できたら歩澄様に知られないように行きたくて……」と言った。
「何だって!?」
梓月は大きな瞳を更に大きくさせ、歩澄に黙って行くようなことなのかと澪に尋ねた。
「あの湯に浸かったら傷が薄くなったような気がして……その……」
「治療のために通いたいということ?」
「そ、そんな通うだなんて、そんなに何度も貸しきりにしたら他のお客さんに迷惑だから本当に時々でいいんだけど……」
おろおろとする澪だが、梓月は客人のことも思いやる様子に笑みを溢した。
「傷が気になるんだね」
察しのいい梓月は、すぐに歩澄のために綺麗な体を手に入れたいと願う澪の心を汲み取った。いくら強くとも澪も女人である。他の女人のように美しくなりたいと願うことはおかしなことではない。
「わ、私じゃなくて歩澄様が……」
「歩澄様? 歩澄様に何か言われたの?」
「ううん。でも、きっと気味悪がってしまうから……。本当はね、見せたくないの」
きゅっと唇を結んで視線を下げる澪の姿に、梓月の胸は締め付けられた。
「そんなことないよ。歩澄様なら澪の全てを受け入れてくれる筈だよ。そういう人だ」
「うん……。わかってるよ。歩澄様は優しいから口には出さない。でも……私は他の人とは違うから……。化け物みたいで気持ち悪い」
澪は更に顔を曇らせる。歩澄を愛するが故に、醜い姿を見られたくないという思いが痛い程伝わってきた。梓月も歩澄も多くの人間を殺してきたのだ。傷を見たくらいで気味が悪いなどと思うわけがない。然れど、そんな言葉など今の澪には届かないだろう。
梓月は軽く息をつくと「わかった。でも忍びで行くなら長居はできないよ」と言った。
「梓月くん?」
「明日、政務が開始したら城下に連れていく。俺も城下で仕事があるから。半刻だけね。それ以上は歩澄様に気付かれるから」
「……いいの?」
「歩澄様には知られたくないのだろう? 半刻だけなら店も文句は言わない。歩澄様の寝所を抜けたらすぐに城を出る。いいね?」
「ありがとう」
澪は胸に両手を当て、顔を綻ばせた。梓月の心遣いが刀傷のように傷だらけになった心を癒していくようだった。
ーー翌日。
先に褥から出た歩澄は「今日は秀虎と洸烈郷へ行ってくる。留守を頼むぞ」そう微笑んで言った。
「洸烈郷ですか……。わかりました。いってらっしゃいませ」
澪も笑顔で歩澄を見送った。
寝所を抜けたらすぐと梓月に言われていたが、歩澄が支度をしている間に急いで澪まで支度をするのも不自然である。故になるべく普段通りに装い、歩澄を見送ってから急いで梓月の元へ駆け付けた。
「ご、ごめん! 梓月くん間に合ったかな?」
「うん。もう出るけどいい?」
「うん!」
政務があるという梓月。己の都合で手を煩わせるわけにはいかないと澪は人目につかないところで梓月と共に馬に乗った。もう一頭馬を出せば、馬番から歩澄に報告がいってしまう。それは避けなければならなかった。
梓月は馬を走らせ、城下に向かった。
湯屋に着くと既に店主と話をつけてあったのか、澪は速やかに中に通された。
「後でまた迎えにくる」
そう笑顔で去っていく梓月の背中を見送り、澪は急いで湯浴みを行った。
やはり美人の湯はとろみがあり、傷口を優しく包んでくれるようだった。栄泰郷、匠閃郷での長旅の疲れも癒してくれた。
半刻でも澪にとっては十分であった。少しでも傷口が薄くなればいいと右腕を撫でながら澪は笑みを溢した。
澪は大きめの手拭いを頭から被り、髪を覆った。濡れた髪は赤く煌めくため、城下では目立つ。歩澄の恋仲の娘は赤髪の姫だと噂を立てられている以上、民に梓月といるところを見られるわけにはいかなかった。
湯屋の店主には忍びで来ていると説明してあったが、民には気付かれぬよう男装していたのだ。
顔を隠していれば、背格好からして琥太郎に見えなくもない。
梓月の迎えが見えてから、澪は直ぐに馬に飛び乗り城へと戻っていった。
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