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梓月を呼ぶと直ぐに障子が開けられた。梓月は書物を読んでいたのか、机に伏せて置いてあり湯浴みもまだのようだった。
政務に真面目に取り組む梓月のことだ。毎晩遅くまで調べ事をしているのだろう。しかし、その梓月が歩澄を裏切ったとなれば今までの功績など全てなかったものにしてくれると歩澄は拳を握りしめた。
「おかえりなさいませ。本日はお泊まりになるかと思っておりました」
「ああ。聞きたいことがあってな。帰って来た」
「左様でございますか。聞きたいこととは、私にですか?」
「ああ。お前、今朝何をしていた」
歩澄の低く唸るような声に、何故か朝のことが知られていると梓月は気付いた。変な誤魔化しなど通用しないと梓月は早々に降参する。
「やはり気付かれてしまいましたか」
「当然だ。私の女に手を出すとはな」
「お待ち下さい。実際に手を出したのならば斬られる覚悟もございますが、歩澄様を想う澪に協力したがために責められるのは納得がいきません」
梓月は両手を高く上げ、降参の姿勢をとって言った。
「協力?」
歩澄は梓月の様子に顔をしかめた。
「どうやら傷の事を相当気にしているようです。貴方様に傷を見られたくないと言っていました」
「何故?」
「わからないのですか? 歩澄様を想っているからに他なりません。歩澄様に醜い姿を見られたくないと言っていましたよ。忍びで湯屋に通い、少しでも傷を薄くしようと考えたのでしょう。貴方様に抱かれる度に、傷のことをどう思われているのか気が気でなかった筈です」
歩澄はその言葉に眉をぴくりと動かした。
(それで抱かれる事を拒んでいたのか!?)
「私は他の人とは違う。化け物みたいで気持ち悪いと自らおっしゃっていました。潤銘郷の女人は皆美しいと落ち込んでいるようでしたよ。歩澄様であれば、全てを受け入れてくださるだろうと説得しましたが、私ではあの傷付いた心までは癒せませんからね。せいぜい澪の気が済むまで湯屋に通わせてやるくらいしか……」
梓月が話している途中で、歩澄は部屋を飛び出して行った。その姿に梓月は二度ぱちぱちと目を瞬かせ「……やれやれ。どちらも人騒がせな……」と呟いた。
ーー
一方澪は、歩澄が出ていった障子をじっと見つめていた。
(言えなかった……実際のところ、歩澄様は私の傷をどう思っているのだろうか……)
憤りを顕にした歩澄に言い訳の一つも思いつかなかった。梓月との逢い引きを疑われるよりも、こっそり傷を直そうと目論んでいた事を知られる方が気恥ずかしかった。
必死で湯屋に通ったところで傷がなくなるわけではない。無駄な抵抗をするなと言われたら、それはそれで悲しい気持ちになる。
澪は、美しい千依や梓乃、皇成の正室である紬の姿を思い出していた。皆美しく、繊細である。
琴を奏でる紬の手は、一切の傷はなく華奢でしなやかだった。しっかり筋肉がついた逞しく傷だらけの澪の腕とは違う。
統主の正室となる女人は、ああいった麗しい姫が相応しいのだと胸を締め付けるような痛みが走った。
(私は歩澄様と恋仲。城内では、家来達にも認められ、皇成にも挨拶に言った。けれど、ゆくゆくは歩澄様も紬様のような正妻を娶るのだろう……。側室にでも置いてもらえればそれだけでもありがたいというのに、どうしてこんなにも悲しい気持ちになるんだろうか……)
視界が涙で滲んだ。こんな体でなければもっと自信を持って綺麗に着飾ってみようとも思えただろう。全てを傷のせいにするわけではないが、綺麗な反物を喜べないのも、その高価で美しい召し物が己の体には相応しくないと思えてならないからである。
澪は、大きな溜め息を付き、桜の木でも眺めようと廊下に出た。桜はとうに散って葉が繁っていたのを確認している。それでもあの桜の木に登り、月を見上げてみれば少しは気持ちが落ち着くのではないかと思ったのだ。
厨房の方へと進み、廊下を歩く。その内に桜の木が現れ、庭に出た。
三日月だった。それでも月明かりは仄かに澪を照らしていた。儚い月明かりでも、澪の心に少しばかり光を灯すには十分であった。
ーービュンッ
不意に気配を感じて澪はさっと避けた。何かが飛んできたのだ。
ーービュンッ
更にもう一度。それを避けると、更に二度続いた。一つは避けたが、もう一つは顔の前でパシッと手で掴んだ。
その刹那、粉が舞う。
「けほっ、けほっ……」
よくみれば、お手玉程度の巾着であり、中に仕込まれていた粉が衝撃で舞ったようだった。
(何、毒か……)
そう思っている内にくらっと視界が歪んだ。それ以上何も考えられなくなり、澪はそのまま意識を手放した。
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