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伊吹は澪と目を合わさぬまま、言いにくそうに口を開いた。
「その……潤銘郷にはかなり出がある。潤銘郷と翠穣郷の間にある洸烈郷を通ってこれれば近いのだがな。残念ながら潤銘郷の門は洸烈郷側にはない。栄泰郷を通ってくる他ない故、丸一日はかかる」
「そう……ですか」
「それに、歩澄がそなたを探しているのであれば、追ってきているやもしれぬ。すれ違いになったら困るからな。歩澄が来るまでここで待つといい」
「しかし……」
「そなたを拐ったのはこちらだ。歩澄にも申し訳ないことをした」
「翠穣郷にいることを知っているのですか?」
「ああ、書状を送った」
澪は、最後に会った歩澄の顔を思い浮かべた。梓月との仲を疑われ、憤りを孕んだ歩澄の表情。まだ誤解されていればここまでやってこないやもしれぬと顔を曇らせた。
「す、すまない……本当に悪かったと思っている。そのように悲しい顔をさせるつもりはなかったのだ」
「いえ……。違うのです。歩澄様と喧嘩をしてしまいまして」
澪は力なく笑って見せた。
「喧嘩……? 統主と喧嘩をするのか?」
「私が悪いのです。誤解させるようなことをしてしまったので。それより、潤銘郷は入郷が困難な筈です。よく城の中まで入ってくることができましたね」
「ああ……潤銘城には食料を卸しているからな。昼間であれば入ることが可能だ。ただ、厳重に警備されているがな。恐らく入荷の際に一人は正面から、もう一人がその隙をついて入り込んだのだろう……。姑息な真似をした……すまなかった」
「もう謝らないで下さい。私は大丈夫ですから」
「そうか……。歩澄には私から丁重に謝罪しよう」
「……来ないかもしれませんよ」
澪が顔を伏せてそう言うと、「そんなわけがなかろう。喧嘩をしようとも愛しい姫が拐われたとあっては気が気でない筈だ。恐らく今頃慌てて城を出ている」と伊吹は眉を下げた。
「こちらからは毎日のように潤銘郷に出向いている故慣れているが、翠穣郷は山道も多く歩澄では城に辿り着くまで二、三日かかるやもしれぬ」
「そんな……」
「すまない。不便のないよう侍女もつけよう」
「とんでもない! 二、三日など何でもありません」
澪はぶんぶんと両手を振る。歩澄とも皇成とも違う統主の雰囲気に澪も萎縮する。高圧的な態度を取られれば澪も強気に出るが、こうも身分の高いものから下手に出られてしまえば悪態をつくわけにもいかぬ。
どうにも居心地の悪さを感じながら、おとなしく歩澄を待っているしかなさそうだとこっそり息をついた。
「そなたは変わっているな……歩澄の女であれば贅沢な暮らしもしていよう」
「い、いえ……私があまり世話をしてもらうのを好まないのです。自分のことくらい自分でできます故、お気遣いは無用です」
「しかし……拐った上、統主の女を無下にはできぬ。せめて客人としてだな……」
一歩も引かない伊吹に、澪はついくすくすと笑い声を溢した。
「な、何故笑う……」
「落様も変わっておられます。ご統主様がそのようにお気遣いされるなど……」
「う……。非はこちらにあるのだ。当然であろう。まあ……歩澄は物言いもきついのだろうが」
「いえ。歩澄様はお優しいですよ。いつも私の事を気にかけて下さいます」
澪の言葉に、伊吹は顔を上げた。信じられないと言ったような顔に、澪は更に笑いを堪えた。
他郷では冷酷非道の神室歩澄の名で通っているのだ。女人一人に優しく接しているなど想像もつかないのだろうと思うとおかしくて堪らなかった。
「驚いたな……。噂は本当であったか。俺はてっきり匠閃郷を手に入れ、村人達を自由に扱うためにそなたを無理矢理側に置いたのだと思っていた……」
「そう考えている方も少なくないやもしれません。落様は、争い事を好まぬご統主だとお聞きしました」
「ああ。俺はこの世から戦がなくなればいいと考えている」
「でしたら、歩澄様とは気が合うやもしれません。歩澄様も本来は争い事を好まないお方です」
「歩澄が……? ははっ、馬鹿を言うな。あれの冷酷さはよく知っている。翠穣郷の民も何人も殺されている」
伊吹はおかしそうに大声で笑った。
「でしたら何か理由があるのでしょう。歩澄様は、匠閃郷の民も大切にして下さっています」
「どうだかな……」
「でなければ、私は歩澄様の側にはおりません」
「そなたは己の意思で歩澄の側にいるのか?」
「はい。お慕いしております」
澪が柔らかな笑みを浮かべる。冷酷非道である筈の歩澄を、これ程までに慕っている女がいる。その女は家である匠閃城を滅ぼされており、郷ごと乗っ取られているも同然。家族も皆殺しにされたはず。それでいて何故こんなにも穏やかな顔でいられるのかと伊吹には理解できなかった。
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