豊潤な郷

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 澪は伊吹の様子に尚も笑い、「驚かれるのも無理はありませんね。端からみれば私は神室軍の襲撃を受けた被害者であり、歩澄様は恐るべき相手ですから」と加えた。 「あ、ああ……」 「ですが、歩澄様は匠閃郷の民を救うために匠閃城を滅ぼしたのです。民を苦しめていたのは、匠閃郷統主ですから」 「そなた……実の父に……」 「私は憲明を父とは認めておりません。民を守れなかった父を統主だとも思っておりません。しかし、それは私も同じこと……私は無力です。ですが、歩澄様のお力添えくらいはできます」 「何か、由がありそうだな……」 「はい。細かい事は私の口からは言えませんが、甲斐様よりかは落様の方が考え方が近しいかと思います」 「……うむ。俺も評定と仕入れのやり取りくらいしか歩澄とは話すこともなかったからな。統主同士というのは腹を割って話す間柄でもない。他郷統主とももはや利害関係でしかないのだ」 「ですが、落様には栄泰郷と手を組むというお噂もございます」 「ふ……ふはは。そなた、怖いもの知らずか。統主直々にそのような質問をするなど」  今度は伊吹の方がおかしそうに笑った。 「不躾な質問でございましたか」 「いや、いい。顔色を伺って遠慮されるよりな。統主の女であれば気にもなることだろう。……あくまで噂だ。独裁主義の煌明に冷酷非道の歩澄。両者が王座に名乗りを上げるのであれば、翠穣郷の民を危険に晒すわけにはいかぬ。危機があれば皇成と手を組み、戦を食い止める考えもあるということだ」 「では……共謀して攻め込んでくるということは……」 「ない。断言しよう。こちらから手を出す気は一切ない。ただ、そちらから侵寇するようであればこちらも容赦はしない」 「それはないでしょう。……匠閃郷を撃ち取った事実がある以上信じていただくのは容易ではないかと存じますが……」 「そうだな。俺は寵愛を受けている姫まで拐ってしまった身だしな」  伊吹は眉を下げ、肩を竦めた。がっしりとした逞しい体は勧玄を連想させた。 「ちゃんと説明すればわかって下さいます。歩澄様には私から説明しましょう」 「……そなたは何故そこまでする? 翠穣郷には何の恩もなく、それどころかこのような目に遭ったというのに」 「恩はありませんが、ご統主様直々に謝っていただいた以上、こちらもこれ以上何も望みません。それに、一人でも話し合いの可能なご統主様がいらっしゃれば私も嬉しく思います」 (若しかしたらここには葉月があるかもしれないしね……)  澪は、翠穣郷に入郷出来たことを好機だと感じていた。一人で向かえば道は険しく二、三日はかかったであろう道のり。更に城内へは容易に入れなかった筈。それを思えば丸一日眠っている内に城内へと招き入れられ、こうして統主とも会うことができた。  次いで統主は無事に歩澄の元へ返そうというのだから、澪にとっては喜ばしい事である。  刀が手に入るのであれば、多少の危険を侵してでも伊吹との距離を縮めてやると澪は密かに目論んでいた。 「話し合いか……。どうだろうな。皇成も掴めん男だ」 「八雲様とは先日お会いしました」 「そうか……」 「遊びに来いとお誘いを受けまして。八雲様も不思議なお方でしたが、民から慕われているのは確かなようですね」 「ああ。民からの支持は厚い。ただ……」 「お察しします」  女人好きはいただけない。それさえなければ対等に話し合いをしてもいいのだが、と言いたげな伊吹に澪が困ったように笑うと、伊吹も声を上げて笑った。
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