豊潤な郷

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 大笑いをする落に澪は微かに口角を上げた。昔の己であれば、同じように歩澄を王にしようなどとは思わなかっただろうなと考えた。冷酷非道な歩澄の印象はどちかと言えば煌明に近い。  他郷も同じように異文化を強いられ、隣国にとって良い条件で勝手に取引されてしまうのではないか。そんな漠然とした異文化への脅威があった。 「歩澄様は、全ての郷を潤銘郷のようにしたいと考えているわけではありません。あんなにも異文化を取り入れているのに武具は未だに匠閃郷のものを使っていますし、潤銘城は匠閃郷の職人が建てた300年の歴史を背負っています」 「それがなんだと言うのだ」 「匠閃郷の良いものは残し、潤銘郷への仕事を依頼し、匠閃郷の生計も配慮した扱いをして下さっています」 「……当然だ。取引をするのであれば双方が納得した上でなければ成立しない。その点では歩澄は隣国との交渉も上手くいっているのであろう。しかし、隣国とは上手くいけど、自国ではどうだかな」 「落様は、取引の名人だそうですね」 「名人?」  伊吹は目をぱちぱちと瞬かせ、首を傾げた。  澪は、以前した楊との会話を思い出していた。伊吹の行っている取引は金銭だけではない。伊吹は瞬時に郷の特徴と弱点を見極め、その時々によって必要な条件で取引すると。その力は歩澄をも超えると。 「貧しい匠閃郷には金銭ではなく、魚の罠を手掛けた技術料として食物を出荷していると聞きました」 「……驚いたな。そんなことまで知っているとは」 「私は潤銘郷を見て度肝を抜かれました。あそこはまるで異国のようで、住む世界が違うとも思いました。そんな郷を統治している歩澄様。凄いお方です。ですが、取引の腕なら落様の右に出るものはいないと聞きました」 「ふ……買い被り過ぎだ。匠閃郷の匠が手掛けた罠は丈夫で重宝する。更に効率よく魚が獲れ、東南海でしか獲れぬ魚も手に入る。故に我郷はそれなりに利益も出ている。その対価として食物を出荷するのは当然のこと。匠閃郷の匠には他にも猪の罠や水車も手掛けてもらっている。海水を濾過するにも道具を拵えてもらった」 「海水を濾過……?」 「ああ。以前は蒸留していたが手間も時間もかかる。然れど、濾過をするにも楽ではない。もっと効率よく大量の水を飲み水に変えることができればもっと暮らしは豊かになるのだがな……」 「飲み水を作るのはそんなに大変なことなのですか?」 「当然だ。どの郷も海に面している部分はある故、海水はいくらでもある。しかし海水のままではとても飲めぬし、雪解け水だけでは足りぬ。かといって川の水も綺麗なとこばかりではない。故に海水が濾過できればよいのだが、濾過器は翠穣郷にしかない」 「……それは何故ですか?」 「濾過の過程を発明したのは我国とは交流のない国だが、その知識を持ち込んだのは翠穣郷の隣国である(ユウ)の国でな」 「邑? そことも取引を?」 「いや、邑の王は中々気難しくてな。容易に取引できる相手ではない。しかし、個人的に邑出身の薬師と出会い、濾過の原理を教わった」 「薬師……?」 「翠穣郷には珍しい薬草や毒草が多くあってな。それらを採取するのに協力するとの取引を行った」 (珍しい薬草……毒草……。はて、何かが引っかかる) 「その話は私が聞いても良いものなのですか?」 「かまわん。他郷統主も知っていることだ。しかし、濾過の原理はその男と俺と濾過器を造った匠閃郷の匠しか知らぬ。故に、濾過器は翠穣郷にしかなく全ての郷が飲み水の取引をしにここへやってくる」 「……なるほど。ですが、今の技術では濾過した飲み水を作るのにも限界がある、ということなのですね」 「その通りだ。だが、この原理はいわば我等の特権のようなもの。他郷に教えてやるつもりもない」  伊吹の言うことは最もである。濾過水で利益が上げれるのであれば、わざわざ原理を教える必要はない。 「左様でございますか……。落様は、郷以外でも個人的にそういった取引をされているのですね」 「まあな。それで民の生活が潤うのであれば」 「……洸烈郷とも取引をしているのですよね?」 「ああ」 「でしたら、甲斐様とも交流がおありなのですか?」 「少なくとも統主同士は交流がある。月に一度統主評定が開かれるからな」 「甲斐様は独裁的であるとお噂がありますが……」 「ああ。あやつの中では強き者が全て。ただ、弱者をいたぶるような奴ではない。面倒見はいい奴だ。故に他郷出身の者であれ、己に跪く者は受け入れる」 (でも徳昂は切り捨てたのか……)  澪は正体の明かぬ甲斐煌明に気味悪さを抱いていた。 「私は、甲斐様にはお会いしたことがありません。然れど、あの方が王になるのは嫌だと思っています」 「はっ……。素直な娘だな。それは皆感じている。芯は悪い男ではないが、王の器ではない。消去法で歩澄か?」 「いえ……総体的に考えて、王には歩澄様か落様か……二択しかないと私は思っております」 「ならば何故、俺よりも歩澄の方が王に相応しいと思う?」 「……落様は優し過ぎます」  伊吹は予想だにしない発言に、目を見張った。
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