2897人が本棚に入れています
本棚に追加
澪は箸を持つ手を止め、じっと伊吹の眼を捕らえた。
「私もこの世から戦がなくなればいいと思っております。王座争いもなければいいと。しかし、こちらがそう思っていても、そうは思わぬ者もいます。もし仮に郷の民が脅かされた時、落様は躊躇なく相手を斬ることができますか?」
「できる。それが民のためであればな」
「落様は人を殺めた過去はおありですか?」
「……」
澪の言葉に伊吹は瞳を揺らし、ふっと視線を逸らした。
「落様は人を殺めた事がないのではありませぬか?」
「だったら何だというのだ。何人もの人を殺めている歩澄の方が俺よりも優れているといいたいのか」
「いいえ。そうではありません。経験は武器になると言いたいのです」
「武器?」
「はい。武器であり、強さであり、優しさでもあります」
「優しさ? はは、さすが冷酷非道の統主の女だな。殺生が優しさだとは。家族を殺され、歩澄の近くにいて頭がいかれたか」
「いいえ。私は昔も今も正常です。私も多くの者をこの手で殺めてきました故……」
澪の言葉に伊吹は目を見張った。次の瞬間には不審な目付きで澪を見た。
「ここで暴れるつもりはございません。私の場合、そうしなければ生きてこられなかったのです。多くの者から命を狙われていましたので」
「命を……?」
「翠城郷には広まっておりませんか? かつて私の命には金百両の値がつけられていたのですよ」
「百両!?」
「はい。賞金首だったのです」
「そなた……何者だ」
「ならず者ではありませんよ。ただ、世継ぎ争いには邪魔な存在であり、忌み子同然の扱いでした。故に匠閃城より懸賞金が懸けられ、その金を目的に多くのゴロツキや忍が私の命を狙ってきたのです。私は其奴等の命を一人残らず取ってきました」
澪の言葉に伊吹はごくりと唾を飲み込んだ。匠閃郷の姫は家族を皆殺しにされた哀れでひ弱で可憐な娘。そう思い込んできたのだ。冷酷非道な歩澄に捕まり、肩身の狭い思いをしながらも贅沢な暮らしはできている。そうであったはずの娘にこんな過去があろうとは誰が予想しただろうか。
「私は命を狙われる恐怖も、生きるために人を殺める術も、反対に誰かを守るための剣も知っています。それは歩澄様も同じ事……。私も歩澄様も殺生を快楽の道具だと思った事などただの一度もございません。
何かを守るためにはそうするしかなかった。殺生をしたが故に実際守れたものがいくつもあり、それを実感できた時ようやく己を赦す事ができる。更に他人を思いやる心を深めることができる」
「私にはそれがないというのか?」
「落様はとても綺麗な目をしていらっしゃいます。ご両親はお元気ですか」
「ん? ああ……」
「そうでしょうね。幼い頃からの世話役も、家来も」
「何が言いたい」
「大切な者を亡くした経験はおありですか? ございませんでしょう。大切に育てられ、守られ、戦を知らない」
「……私を馬鹿にしているのか」
伊吹は殺気を孕んだ瞳で澪を一睨した。澪はそれに怯むことなく言葉を続けた。
「とんでもございません。それはこの乱世の中でとても貴重な事ですから。歩澄様も戦でご両親を亡くされています。喪失を知り、絶望を知り、挫折を知り強くなる。歩澄様にはそういった芯の強さがあるのです。
落様はとても皆から愛されているのですね。家族からも家来からも民からも。それは誰にでも手に入れられるものではない。とても尊いものなのです。できれば私は、落様にはずっとそのままでいていただきたいと思うのです」
澪は眉を下げ儚げに微笑んだ。澪にとって伊吹は眩しい程に誠実であり、純粋であり、美しい人間に見えたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!