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「殺生などしない方がいいに決まっているではありませぬか。落様は今のままで十分素晴らしいご統主であると思いますよ」
「そなたは俺のことなど何も知らぬではないか」
「はい。知らぬ筈なのに伝わってくるのです。優しさや思いやりが。こうして長閑で平和な内は落様の優しさが民にとって揺るぎない信頼を生むことでしょう。しかし、いざという時、判断を鈍らせます。一瞬の遅れが命取りとなるのです。時には躊躇なく、慈悲なく斬ることができなければ足元を救われてしまう。それが落様と歩澄様の違いです」
「故に私は王の器ではないと?」
「そうは言っておりません。歩澄様の方が相応しいと言っているのです。現に貴方は統主でありながらただの他郷統主の囲い姫にここまで言われて刀も抜かない」
「ぬ……」
「統主であれば無礼者と叫んで刀を抜けばよろしいのです」
澪は平然と言ってのけると、食事を再開した。空腹には喜ばしい食事だ。冷めない内に完食してしまいたかった。
「挑発されたくらいで、脅すような事はできぬ。ましてや女になど……」
「もしも私が間者ならどうするのですか?」
「間者?」
「潤銘郷から拐ってきた女は実は間者で、濾過器の設計図を探し、歩澄様にお渡しする可能性もございますよ」
「ふ……それにしては随分情報を漏らしてしまう間者だな。そうか……やはり、私は王の器ではないのだな」
伊吹は眉を下げ、微笑を浮かべた。やはりという言葉が引っ掛かり、澪は首をひねった。
「私は統主の座に就いてから丸四年が経った。以前両親にそなたと同じ事を言われてな……。王が暗殺された時、翠穣郷だけ守れる統主であればいいと先代統主に言われたのだ」
「左様でございましたか……」
「私もそれでいいと思っていた。私は争い事を好まぬし、知っての通り剣術は歩澄よりも劣る。統主たるもの刀を振るい、腕を磨くべきなのだろうが、その時間があったら私は民との交流を図り、翠穣郷の食物を共に守りたいのだ。政を見直し、より民の暮らしが豊かになるよう努めたいのだ」
「ご立派です」
「そうだろうか……。私が王座に名乗りでなければ、民はがっかりするであろう。それに他郷統主が王になれば濾過器も翠穣郷が独占することができなくなるやもしれぬ。利益がなくなれば翠穣郷は今以上に貧しい郷となくる」
「それを危惧して落様は王座を就くおつもりだったのですね」
「ああ。歩澄が翠穣郷の制度をそのままに王位に就くのであれば、譲ってやってもいい。しかし、そなたが言う歩澄が本来の奴である保証はどこにもない。故に、今は認められぬ」
「そうですね。私はあくまでも歩澄様の魅力と人となりをお伝えすることしかできません。実際に王となる権利があるのは統主のみですから。私は歩澄様と落様が納得のいく話し合いができることを願っております」
それから澪は箸を置き、空になった器の前で手を合わせ「ごちそうさまでした」と呟いた。
米粒一つ残さぬ綺麗な器を見て、伊吹もまた澪の誠実さを感じた。
ーー
潤銘郷では家臣がバタバタと廊下を走り回っていた。澪の姿がなくなってから一日経っている。最初に異変に気付いたのは歩澄であった。
梓月との会話を切り上げ澪の自室を訪れた歩澄だったが、中に澪がいないことに落胆した。拗ねてどこかへ行ってしまったのかと暫く歩き回った。
また桜の木にでも登って泣いているのではないか。そんな勘が働いて行ってみたものの、そこにも澪の気配はなかった。しかし、見慣れぬ巾着が落ちており、それを手に取った。その刹那、歩澄は反射的に袖で鼻を覆った。
(嫌な予感がする……)
歩澄にはそれが何かを特定することができなかったが、調理に使うような粉には到底見えなかった。
「誰かいるか!」
歩澄が叫ぶと直ぐ様家臣が駆けつけた。わらわらと人手が集まり、歩澄はその内の一人に楊を呼んでくるよう指示を出した。他の者には直ぐに澪を探すよう命じた。
澪の捜索が開始される中、ゆったりとした足取りでやってきた楊は巾着の中身をそっとつまみ、指先を擦り合わせた。距離を取ったまま匂いを嗅ぎ、指先をぺろりと一舐めした。
「うん……眠り薬だね」
「眠り……薬?」
歩澄の嫌な予感は膨らむ一方で全身に大量の汗が吹き出した。
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