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水汲みを終え、戻った伊吹と澪は入荷用に用意した荷台へと樽を移し、残りの水を使って畑全体に水やりを行った。
伊吹と対等に樽を扱う澪の姿に大和を初め、家来達も当然驚いた。
収穫できる野菜を採り、土を掘り起こした。みずみずしい取れ立ての野菜をその場で手渡され一口噛れば、甘みが口一杯に広がった。
伊吹と共に汗を流し、畑を耕し水をやり、野菜の美味しさを分かち合う。澪は、翠穣郷が穏やかな郷であると言われている事実を身を持って知った。
翠穣城の田や畑は広大で、城下にの民も次から次へと交代でやってきては作業をする。皆、己の田や畑があるにも関わらず、一段落ついたところで手伝いにくるのだ。故に民は皆、村も関係なく顔見知りであり、協力しながら一丸となって作業を行っている。
匠閃郷にも潤銘郷にもない光景であり、澪はここへ来てから驚くばかりだと思いながらも顔を綻ばせた。
他郷からの侵入に制限をかけていない翠穣郷だが、潤銘郷統主と恋仲である澪がいるとなれば当然民は騒然とする。
故に、潤銘郷から客人がきたとだけ紹介し、澪の素性は伏せている状態であった。澪の身分を知らぬ民は皆、かしこまる事なく澪と接した。事情を知る大和や他の家来達はその様子を落ち着かない様子で眺めていたが、澪は気にすることなく民と笑顔で会話をしていた。
澪にとってはそのやり取りが小菅村にいるようで心地よかったのだ。統主の女として気を使われ、もてなされるのはどうも性に合わなかった。
日が暮れてくると、本日の作業は終了し、民も皆城下に戻っていった。頬に土を付けた澪に、伊吹はくすりと笑うと手を伸ばし指先でそっと払った。
「土が付いているぞ」
「ありがとうございます。きっと汗を拭った時に付いたのですね」
満面の笑みを浮かべる澪。
(泥だらけで汗だくになりながらもまだこのように笑っていられるのか……普通のおなごであればとうに逃げ出しているだろうな。変わった娘だ)
澪の姿に、伊吹は何故か心落ち着くような安心感を得た。澪を見ていると自然と笑みが零れ、暖かい気持ちになるのだ。
「湯浴みをしてくるといい」
「はい! 今日は、畑の事をたくさん教えていただきありがとうございました!」
嬉しそうに歯を出して笑う澪は、世話役としてあてがわれた女に連れられて湯浴みへと向かった。
「手伝ってもらったのはこちらだというのに……まったくかなわんな」
短い髪を前から後ろに一撫でし、がしがしと頭を掻きながら伊吹は苦笑する。
「ええ……本当にあの者があの神室様の想い人なのでしょうか」
「ああ。間違いない。あの凛とした表情に逞しい精神力。それでいて民を平等に敬う心遣い……」
「さすがは統主の娘と言ったところでしょうか」
「……それだけではない気がする。あの者にはもっと深い何かがある」
「……それはなんですか?」
「わからぬ。然れど不思議な女だ。今日初めて民と接しただけで、皆あの者に心を許した」
「……勝手に拐っておいて私が言うのもなんですが……伊吹様の奥方様にはあのような方が来て下さると良いですね」
「な!?」
予想もしていなかった言葉に伊吹の顔はみるみる内に紅潮していった。
「白頌様も白院様も世継ぎの心配をされていたではありませんか」
白頌は先代統主を、白院はその正妻を指す敬称である。統主の座を譲渡した先代統主は白頌として伊吹の補佐役を担っている。
全ての決定権は伊吹にあるが、一存では決められぬ案件については白頌の意見を聞きながら行うことも多い。温厚な性格だが、槍の腕は長けており、現伊吹に変わる前は軍勢も士気を高めていた。流行り病にかかってからは体力も落ち、回復したものの先陣をきって戦に出るほどの力はないとの判断から王位争いが勃発する前に伊吹の座を退いた。
現伊吹の刀の腕をわかっている白頌は、常日頃から「国の頂点に立つ者に成らずともよい。翠穣郷だけは守れる統主であれ」と言い続けてきた。伊吹は齢三十二となり、白頌も白院もそろそろ妻を娶り世継ぎを授かるよう口煩くなってきたところであった。
良家の娘が度々やってきては伊吹との顔合わせをした。おおらかな伊吹に娘はすぐにでも嫁入りを希望するが、伊吹が毎日共に農作業を行ってくれるかと質問すれば娘は血相を変えてそんなことはしたことがないと唇を震わせた。
伊吹も無理に農作業をさせるつもりはなかった。自ら喜んで農作業を行ってくれる娘であれば町娘でもかまわないとも思っていた。されど、正室ともなればそれなりの身分の者でなければ示しがつかぬと白頌から反対されていた。高貴な家柄の娘が農作業などやりたがる筈もなく、煌明、皇成が妻を娶る中、伊吹はまだ妻の候補もないまま日々を送っていた。
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