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湯浴みを終えた澪は、長く続く廊下を歩いていた。額に刻まれた皺の目立つ世話役の女に連れられて、夕飯の席に案内されているところであった。
角を右に曲がると、壁にかけられた紙に目がいった。両手一杯に広げた程の大きな紙に文字が書かれていた。
澪は思わず歩みを止め、正面からそれを見た。
目で文字を追う。どうやら和詩のようで言葉の最後に落 雷堂と書かれていた。
足を止めた澪に気付いた世話役の女は振り返り、数歩進んだ廊下を戻ってきた。
「そちらは幼い頃の伊吹様が書かれた和詩でございます」
「幼い頃? ……達筆ですね」
「ええ。伊吹様は、幼い頃よりそれはそれは美しい字を書くお方でした。白頌様……伊吹様のお父上にあたる先代ご統主様がとても喜ばれまして太陽の光が一番に入るこの廊下に飾られたのです」
澪が左側を見るとそこは大きな庭が広がっており、そちらが東の方角であることを認識した。
「幼い頃ということは、こちらが本名ですか?」
「ええ。落雷堂様です」
(凄い名前だ……。落雷とは……)
「縁起の悪い名前だと思ったか?」
難しい顔をしていた澪は、突如聞こえた太い声に飛び上がった。たった今、そのような事を考えていた、とは言えず定まらない表情のまま声の主である伊吹の方を振り返った。
「い、いえ……」
「はは。誤魔化さなくともよい。雷が落ちるなど、普通に考えれば縁起が悪いものだ。然れど、ここでは違う」
「……雷がですか?」
「ああ。雷によって発する光を稲妻と呼ぶであろう? 何故そのように言われているか知っているか?」
「……いえ」
「雷は稲の結実期に多く起こるため、これによって稲が実ると言われているのだ。故に、稲にとって欠かせない存在というところから稲の妻で稲妻と呼ばれるようになった」
「では、豊作を願う翠穣郷にとって雷は欠かせない存在なのですね」
「そういうことだ」
伊吹が大きく頷くと、澪は再び落雷堂という字を見つめた。翠穣郷にとって雷が必要な存在であるように、伊吹もまたこの翠穣郷にとって欠かせない存在である事を示している。その意味を汲み取った澪は、ぱあっと表情を明るくさせ「わぁ……雷堂様……素敵なお名前ですね!」と伊吹に向き直った。
その刹那、伊吹の胸が大きな衝撃を受けたかのように高鳴った。息苦しさすら覚える程の、激しい鼓動が続く。
ーードッ、ドッ、ドッ、ドッ
速度を速める心の臓の動きが、耳につく程音を立てていた。
伊吹の座に付く前は、当然のように雷堂様と呼ばれてきた筈であった。久しく呼ばれていなかった名だからだろうか、それとも素敵だと褒められたからだろうか。伊吹には理由などわからなかった。しかし、澪に本名で呼ばれ、その名を褒められたことに今まで感じたことのない程喜悦した。
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