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命乞い
海の上に浮かぶ島国、溯雅ノ國。時代の流れに流されることなく、力強く優雅に。より上質な國を作り上げていけるようにと二千年程前にこの國の王が命名した。
二年前にその王の子孫である当時の王が暗殺されたことにより、現在国王が不在の状態が続いていた。
幸か不幸か、溯雅ノ國は五つの郷から成っており、それぞれの郷には統主と呼ばれる郷を統治する主が存在する。
そのため、五つの郷はそれぞれの統主が郷を治めている。
隣国からの文化が少しずつ取り入れられ、時代は変わろうとしていた。それに伴い、各郷の統主も武力と知力を最大限に活かせる若者へと世代交代したばかりであった。
各統主は、齢二十代前半から最年長で三十二歳。総戦力を考慮するとそれぞれの統主の力はほぼ互角。
各郷に優れた統主が輩出された、まさに百花繚乱の時代である。
どの郷の統主が国王となるか、月に一度の評定で集結するも話はまとまらずにいた。
表面上では、穏やかに国王を決めようと評定がなされる。しかし、各々が隙あらば統主の首を獲ろうとしていることは言うまでもない。
五つの郷をまとめる者として、どこの郷の民にも害を及ぼすわけにはいかないため、あからさまな襲撃もできずにいた。
そんな中、一人の統主が動く。
五つの郷の中で一つ、機能を失った郷があった。郷の名は匠閃郷。
五つの郷の中で最も物作りに長けた郷である。五つの郷で使用されている武器や武具のほとんどがこの郷の匠により造られている。職人の数は溯雅ノ國一であり、名刀も多く鍛刀されていた。
そんな匠閃郷の統主は齢四十八。他の郷が若い統主に変わっていく中、この郷だけは統主を変えなかった。否、変えることができなかった。
既に城の中は錯乱状態。世継ぎ争いが勃発し、側室の言いなりであった統主は家臣すらまとめられずにいた。
百尺(※約三十メートル)近くある匠閃城の屋根の上。ようやく日が出てきた頃、緩やかな斜面から顔を出し、一人の女が「あれが神室歩澄か……」と呟いた。
匠閃郷を統治する宗方家の姫、澪である。
艶のある暗赤色の髪を高い位置で一つにまとめ、黒と赤を基調とした戦闘服を纏っていた。着物の裾は腰下で切り揃えられ、膝上から爪先までを伸縮性に優れた布が覆っている。その程よく筋肉のついた細く長い足が存在感を放っていた。
戦闘服は、祖父の顔利きで武具を専門に扱う仕立て屋が新調してくれたものだ。
決して姫らしくない出で立ちをしているのは、その身を己で守り抜くため。
匠閃城に攻め込んできた軍勢をみて、神室歩澄の名が出たのは、潤銘郷の統主である証の郷紋があしらわれた旗がいくつも見えたからに他ならない。
銘高山で採取された石を磨き、隣国に流通したことから瞬く間に話題となり多くの貴婦人を虜にした。その見る者を魅了する美しい碧空石が潤銘郷に功績を残したとし、象徴とされている。故に、潤銘郷の郷紋には碧空石を題材とした形が使用されていた。
潤銘郷は匠閃郷の隣郷である。西の海に面しており 、先の通り隣国との交流が盛んに行われている郷だ。
五つの郷の中で最も財力があり、きらびやかな都である。庶民といっても富裕層ばかりで、隣国の珍しい文化に触れ、服装も絹を用いた軽くて薄いドレスを好む貴婦人も増えてきている。
そんな潤銘郷の統主である神室歩澄は、三人の家臣の後ろにいた。それが統主であると澪が直感したのは、彼が放つ気迫と超人めいた美貌である。
雪のように白い肌に、色素の薄い白に近い色をした絹のようにしなやかな髪を靡かせている。柔らかそうなその髪は肩より少し長く、さらさらと風に舞う。
まるで異国の姫君であるかのようなその風貌は、隣国の血縁が紛れているのではないかと噂されているが、実のところは澪も知らない。
ただ、あの美しい見た目と反し、神室歩澄は冷酷非道で血も涙もない人間であるということだけは有名な話だった。
神室歩澄を動かせるのは、財力のある人間だけ。罪人は全て死刑であり、慈悲はない。平民は奴隷のように扱われ、匠閃郷では裕福だといわれる程度の財力では見向きもされないだろうと巷で話題となっていた。
その潤銘郷の統主が攻め込んできたのだ。無論、目的は匠閃郷統主の首。歩澄が統主の首を獲れば、実質匠閃郷は潤銘郷の所有地となる。
他の郷の統主も同じ事を考えていただろうが、五つの郷の中でも一番若い歩澄の決断は早かった。
前回の統主評定で匠閃郷の落ち目を悟った歩澄は、その日から三日と経たず攻め込んできたのだ。
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