キャリグナクッラ城の吸血鬼

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キャリグナクッラ城の吸血鬼

イェールは寒い土地だが、去年の冬はひときわ寒かったように思う。 インチジェラに着いたのは嵐が過ぎた後で、空は晴れて星空が広がっていたが風は身を切るように冷たく、私はだだ広い道路と民家の灯りしか見えない小さな町で一人寒さに震えていた。 時刻表を見ると州都イムログ・ファダへのバスまで二時間ほど時間があったので、どこかで時間を潰すことにした。 それにしても、今夜はなんて月だろう。 ゆるやかな勾配の坂を登り、ようやく見つけた小さなバーのガラス扉を開くと、心身ともにゆるむような暖気が身を包んだ。 木と酒の混じったあまったるい匂いに飲み込まれそうになりながらカウンターに腰をかける。 年季の入ったモスグリーンの壁紙に、鳥が海を渡る絵がかかっている。 カモメをあしらった時計の秒針が時を刻む。 山深い村にとって海とは憧憬のあらわれか。 「ご旅行ですか」 私に声をかけたのは、隣に座っていた四十すぎの男だった。 赤ん坊のようなふくふくした顔にかかった薄い金髪はじっとりと湿っていて不潔な印象を与える。 着ているスーツはシワだらけでだらしなく、まるで寝起きのまま外に出てきたかのような格好だ。 私は面食らい、どう答えるか迷った。 男の格好にではなく、人と話すことが久しぶりだったからだ。 実際彼は私が外に出て初めて会話した人間だった。 「リー河の西にある苔だらけの城を見ましたか?」 返事に迷う私に、男(ドナル・ベアーと言った)はかまうことなく続けた。 見ていないと答えると 「見たほうがいい。14世紀末の古城でね。 この町の名所にもなっているんです。お里への土産話にもなるでしょう」 目をキョロキョロさせ、急かされるかのようにすすめてくる彼に、私はうろたえた。 古城を見物するのなら今夜はこの村で一泊することになる。 できるだけ早くイムログ・ファダに向かいたいが、その場しのぎにうなずこうものなら案内役まで買って出られそうだ。 「あの城には吸血鬼どもが住み着いてるんです」 ドナルはため息を付いてラム・コリンズをすすった。 「外部とは一切交流を持たず、仲間うちだけで寄り添ってました。 フィッツジェラルド卿の遠縁がおりましてね。 土地転がしや証券の利回りで暮らしとりました。おもに先祖の遺産ですね」 「……詳しいですね?」 「住んでたんです。もう四十年以上前の話ですが。私、こう見えて六十過ぎとるんですよ」 ドナルは力なく微笑んだ。 「しきたり、とやらにうんざりしましてね。 何の意味があるかわからないような慣習や規則を口やかましく言われるんです。 特に八代目デヴォン伯爵の息子、フィリップ・コートニーのひ孫娘のイニオンってのが気の強い女でね。 逃げたんです。夏の夜に、ひとりで。 どうにでもなると思ってた。なんでもやって生き抜いてやろうと思った。 でも、それも長くは続かなくてね」 彼はうつむいた。 視線の先にある黒いドラムバッグは大きさの割に中身がほとんどないらしく、へたばって床に置かれている。 「一度身につけた常識や価値観というんですかね、時代によってコロコロ変えんのはしんどいですわ。 なんも信じられなくなりますよ。 ひとつところに長く勤めようと思いましてもね、永い永い自分の将来、いつまでもやれる仕事があるとは思えんのです。 いつまでこうやって必死に時代に食らいつかないかんのかと思ったら、もう何もかも嫌になってしまいましてね。 『新しいもの』がだいっきらいになりました、怖いんですわ。 怖いんや。ネズミやコウモリみたいにね。 まっとうなキリスト教徒のように、寿命で死ねるってのは、本当に羨ましいことだと思いますよ」 そう言って彼は言葉を切った。 口元は自嘲するかのように笑っていたが、その目には疲労の色が浮かんでいる。 「失礼、そろそろバスが」 ドーモ、と彼は帽子を取った。 「差し出がましいかと思うけど…… あなたは、同胞たちのもとへ戻ったほうがいいと思うよ」 「無理ですよ。イニオンは私を許すつもりはありませんから」 「拒絶されたら、もう一度謝るんだね。今度はもっと心を込めて」 ドナルは厭わしそうに顔をしかめた。 「いさぎよく身を引くばかりが男ではないよ。 許してもらえるまで何度でも謝るんだ。 それこそ永いこれからの人生、一時の恥くらいなんてことないだろう?」 彼は何も言わなかった。 言いたいことは山程あるようだったが、言い争いをする気力もないようだ。 私はウェイターを呼んで会計を済ませると、軽い会釈をして店を出た。 あれからインチジェラに立ち寄る機会はなく、男がどうしたかはわからない。 孤独というのは心を蝕む。 彼が仲間のもとに戻って暮らせていればいいのだが。
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