11人が本棚に入れています
本棚に追加
「一条さん。歳は?」
「ユリでいいです。31です。」
「そうか。ユリちゃんは31か。若くていいな。」
山本と名乗った男性は、どうやら自分のことをユリちゃんと呼ぶことに決めたらしい。子供じゃないのに。と多少嬉しい感じもしながらユリは山本について行った。そして、一緒に歩き始めてすぐに気になったことを聞いてみた。
「足、悪いんですか。引きずって歩いてますね。」
「あぁ、これな。俺は最近まで大工だったんだ。だけど夏にうっかり高いとこから落ちちまってな。今流行の熱中症ってやつか。ちょっとふらつくなと思ったら、どしんと落ちちまってさ。暑さにやられて俺の大工人生は終了したのさ。」
ずいぶん明るい口調で話す山本に、どう反応していいかわからなかったが、ともかく何か相槌を打たなくてはと思いながら
「そうだったんですか。だからお仕事を探してるんですね。」
と答えた。
「まあな。最初は何か仕事がないかと思って通い始めたんだけどよ。
今はハローワークに行くのが趣味みたいになっちまってるな。」
「趣味?」
訳が分からずに呟いたユリの三歩先で
「さ、ここだ。」
と山本は嬉しそうに古い喫茶店の前で立ち止まった。
何とも昭和チックな喫茶店だった。
週末の午前中に放映されている地元の情報番組で、何度か見たことがある。
何度もペンキを塗り直したのであろう木でできたドアを開けると、聴き慣れない洋楽が流れている。
色あせた黒のエプロンをつけた店員が出てきて、忙しそうに、しかし愛想よく
二人を席に通してくれた。
温かい。
それだけでゆりはホッとすることができた。
「俺はコーヒーだな。あとチーズケーキ。
ゆりちゃんも好きなもの頼みな。」
さらりと山本が言う。
「チーズケーキ。私もそれにしようかな。あと、温かいアールグレイ。
あ、それから自分の分は自分でちゃんと払いますから。」
この人も失業中なんだ、ということを考えながらハッキリと伝えた。
でも山本は
「何言ってるんだよ。遠慮してんのか?俺だってちゃんと蓄えはあるんだ。
チーズケーキ二切れ分くらい払ったからって、ちっとも困ることはないさ。」
と笑いながら言った。今まで、仕事中に思うさま太陽の光を受けて来たのであろう目尻のシワが、渋いとユリは思った。
「えっと、じゃあご馳走になります。」
ユリは素直に答えた。
なぜだろう。なぜこの人はこんなに自然で、私も居心地がいいんだろう。
家族とも、恋人とも、友人とも違う空気感に、ユリは不思議な気持ちを抱いていた。
店内で流れてBGMが、ビリージョエルのHonestyに変わっていた。
外と室内の気温差のせいで、窓は白く曇っている。
コーヒーの豆を引いた香りが、鼻の下を流れた。
最初のコメントを投稿しよう!