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「柏木さんじゃないか。いやずいぶん偶然だね、こんなところで何やってるの」
僕は平然を装いながら、服に着いたほこりを払った。
「マッチーこそ、どうしてこんな馬鹿なことしてるの」
顎を手に乗せて、嬉しそうにポニーテールを揺らしながら彼女は尋ねた。
「これにはわけがあるんだ。本来こんな蛮行に及ぶなんて、僕の今日の予定メモには書かれてない」
うんそうだね、と彼女は適当に相槌をうって、とりあえず行こうか、とレジの方を指差した。
「ということは、マッチーがあんなに必死になっていたのは、ただトイレットペーパーが買いたかったのに、二店とも品薄で、やけにみんな急いでいたからなんだね」
僕は柏木さんと歩きながら、今までの経緯を説明していた。もちろん、昨日のバカみたいな間抜け話はしていない。ここでトイレットペーパーを買えると慢心していたばかりに、特に買うものもなく、今日のデザートと題してプリン一個をカゴに入れた。決して、このくらいの金の余裕があると柏木さんにアピールしたいわけではないのだ。そもそも早めにいってトイレットペーパーを無事に買えていれば、彼女に無様な姿を見られることもなかったはずだ。どうやら僕は、昨日の復讐も果たせず、一店舗目での復習もできないらしい。あれ、と僕はふと疑問に思った。
「柏木さんは、どうしてあんなところにいたの」
「え、マッチーと同じだよ。私も数が少なくなってたから」そうなんだ、と僕は言って、この後の言葉が思い浮かばないから、話を変えた。
「それにしても、どうしてこんなトイレットペーパーが売れんてるんだか、さっぱり分からない。年代もバラバラだし、特定の年齢層のブームってわけでもなさそうだし」
「私たちで考えても仕方ないよ。マッチー、スマホで調べて」
「いや、僕はスマホは持たない派なんだ」ほら、といって、僕はポケットから通話専用の携帯電話を取り出した。ネットは繋がらないが料金は安い。
「そっか、マッチースマホ持ってなかったね」
改めて認識するように頷き、同時に残念そうに柏木さんは僕を見た。
「そんな哀れむような目で見ないでよ。柏木さんがスマホで調べればいいじゃないか」
僕は反撃とばかりに彼女のバッグから覗くスマホを指差した。それを柏木さんは隠すように手で引っ込める。
「私だって、スマホを買えないくらいお金に困窮してるわけじゃないけど、今月のギガがもう無いの」
「それって悪いの柏木さんじゃん。あと僕は買えないんじゃなくて買わないんだ」
少し動いたせいで、カゴの中のプリンが小刻みに揺れた。僕がここで正直に、お金がないんです、なんて言ったら、それこそ、このプリンが今まで僕の経済余裕を具現化していた意味が無くなってしまう。それはプリンへの冒涜だ。だからこそ、僕はここで名言のような迷言を主張しなくてはいけないのだ。しばらくため息をついていた柏木さんだったが「うん、まあいいよ」と諦めた。
レジの人にでも聞いてみよう、と彼女はレジを丹念に見回して、あそこが空いているという判断に至り、そのレジに並んだ。僕はその見回す時間を使って並んだほうが早いだろうと思ったが、休日だからかどこも同じくらい混んでいた。そうしてレジの順番が回ってきたときには、カゴに柏木さんの日用品と僕のプリンがあったのだが、ここで問題が発生した。
「柏木さん、これプリンと柏木さんの別々に払う?」
「え、いいよ、後で精算しようよ」
ということでカゴを持っていた僕が自然に払うことになった。それで肝心のトイレットペーパーの件を聞こうとしたのだけれど、いかんせん目つきの悪いおばさんがレジの担当で、僕は一言も言葉が出なかった。おばさんはマスクをしていて、表情は完全には分からなかったが、多分、あの、ちょっといいですか、と質問すれば、睨みながら返答してくるだろう。今だって、彼女にもプリンぐらい買ってやれ、と思ってるかもしれない。いや、これはいささか僕の妄想が過ぎるのかもしれないが、それほどの鋭い目つきだったのだ。マスクの下は謎だらけだ。僕のそもそもの怯懦な性格が災いして、結局その後誰かに聞くことはできなかった。柏木さんは僕の後ろに隠れてスマホをいじっていた。さっきのやりとりはなんだったのだろうか。こうなったら面倒くさい。スマホかパソコンでも買って、楽々オンラインショッピングでも始めようか。いやでもお金が……。そんなすべてに失敗しているくせに自分を正さず楽なほうへ逃げていく短絡思考に、我ながら嫌気がさしてきたときだった。
「あ、マッチー、あれってモリリンじゃない?」
モリリンという森の妖精のようなふわふわした単語に戸惑いつつ、彼女の向く方を見れば、ああなるほど。大学の森田だった。確かに柏木さんは森田のことをモリリンと呼んでいた気がする。森田本人は、今の店を出てすぐの交差点を、大きな袋を掲げて歩いているところだった。行こう行こう、と柏木さんが走っていったので、僕も後をついて行った。モリリンと連呼されれば流石に気付かないはずもなく、森田はこちらを振り向いて、おおと声をあげた。
「町と、柏木さんじゃないか」
少し出ているお腹をこちらに向けて森田は言った。少し疲れてるのが、声から分かる。それから、偶然だね、と決まり文句のように言って、歩き出した。
「課題があってさ、今それに忙しくて」と歩きながら話す森田。僕は森田の持っている袋の中身を見るまでは、面倒くさい奴に会ったものだと顔を顰めていたが、その袋の中身——つまりは大量のトイレットペーパーを一目見て、僕の森田への興味、誤解しないで欲しい、森田の行動への興味が、格段にあがった。
「森田、そのトイレットペーパーって——」その後の言葉を、森田が手で制す。森田は愉悦と倦怠を滲ませた声で言った。「詳しいことは俺の家で話そう」
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