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トイレットペーパー因果
僕、町田は激怒した。必ず、これからはトイレットペーパーを携帯しようと決意した瞬間だった。というか、それよりも寒かった。桜が咲き始めた三月だというのに、夜はまだ冬の名残を残している。膝まで下げたズボンの上をひゅうひゅうと風が走っていた。
「なぜこんなことになったんだ」
ここは公園内の公衆トイレ。そいで僕は、そんな辺鄙な場所で危機に瀕していた。大きいのをしてから少し経って、トイレットペーパーがないことに気付いたのだ。大学からの帰り、正確に言えば、酩酊して合コンから逃げ出してきた帰りだったが、電車で煩わせた微妙な気持ちを引きずりながら、家まで保つと考えたのが失敗だった。駅のトイレに寄らずにとぼとぼと帰っていた矢先、うっと歩くのが辛くなって急いで入った公園のトイレにトイレットペーパーは空。便座を拭くのを怠ったのが運の尽きだ。事後になってはどうしようもない。怒ってもその熱は寒さで縮んで、残るのは虚脱感だけ。その日は、酒酔いとお尻の違和感を携えたまま、ふらふらと家に帰った。
翌日の朝、二日酔いにならなかったことに感謝しつつ、休日ということもあって、僕は近くのスーパーへ出かけた。昨日の反省と、もともと家の在庫が減っていたのも相まっている、トイレットペーパーが目当てだ。今週の食べ物を一通り揃えて、僕は日用品コーナーに向かった。と、よく見ると、トイレットペーパーのコーナーには三パックしか余っていなかった。こんなこともあるのかと少し驚きつつ、そこへ行こうとした時、いきなり後ろから、カーレースでもしているのかという速さで追い抜かれ、そのレーサーは三袋のトイレットペーパーをせっせとカゴに取り入れて、そのまま角へ消えていった。そのレーサー、実に普通のおじさんだった。僕の目の前にはトイレットペーパの値札だけが残された。そこまで焦って買うのかと、僕はおじさんの奇行ともとれる行動に呆気にとられる。果たして謎の襲撃?によって、僕は復讐を成しえなかった。だが諦めるわけにもいかない。復讐とか反省とかの云々以前に、これは生活必需品なのだ。まずは家に帰って買った食品を冷蔵庫に入れてからだ。そうして、家に帰った僕はその足で、近くの違うスーパーに行ったのだった。二度あることは三度ある、とは古今東西よく聞き慣れ、使い古された言葉だけれども、実は一度あることは二度ある、ということわざも存在するのだと、友達から聞いたことがある。そんなことはどうでもよかった。いや逆に、そんなトイレットペーパーの芯並みに必要のない知識を思い出すほどに、僕は混乱していたのかもしれない。予定通り目的の二件目スーパーに着いたのは良かった。スーパーの天井に吊るされたトイレットペーパー売り場の表示を見つけて安堵していた矢先、その通路へ一人のおばさんが入っていった。胸騒ぎがして、僕は少々急ぎ足で向かおうとすると、後ろから熱気を帯びた風がやってきて、まるで先のスーパーのおじさんを真似たかのような非の付け所のない再現度と速さで、僕の目の前をお姉さんらしき女性?(その速さは僕の目を判断不能にさせた)が通り過ぎる。その間にも、二、三人がその通路を出入りした。と、ようやく僕は、その激戦区と化した通路にたどり着いた。目を凝らすと、一パックだけ棚に残っている。よし、と駆け出したと同時に、反対側のほうからひとりの女性が姿を現す。圧を感じた。僕の後ろからも人が迫っているのを感じたからだ。後ろを向いたら負けだ。その瞬間他の奴にゲットされる。負けられない戦いだった。それは僕が感じた今この瞬間の人と人とが生活を賭けて必死に奪い合う様を、勝手に戦いに結びつけた妄想に過ぎない。ただ、それほどの闘争心が僕にはあった。走った。あのおじさんやお姉さん?にも引けをとらない速さで体を動かした。反対側の女性は走り出した僕に恐れたのか立ち止まったままだ。今がチャンスと手を伸ばすが——、あと少しのところで、横から手が伸びてきた。その手は袋を素早く掴んで体に引き寄せて、あっという間に消えていった。追い越されるなんて。「う……」僕は地面にうつ伏せに倒れた。今日初めて喋った気がする。それがこんな情けない一言なんて。
「大丈夫ですか」
女性、若い人の声だ。さっき反対にいた人かもしれない。「はあ、すいません、大丈夫です」と力なく言って顔を上げる。女性はしゃがんでこちらの様子を見ていたが、顔を上げると、あっ、と驚いたようにその女性は声をあげた。
「マッチーだ」
マッチーとは、僕の苗字の町田からとったあだ名だ。彼女は大学の同じ学部の柏木さんだった。
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