深山の王

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 陽太にとっては小学校四年生にして初めての虫取りだった。これまでの陽太は家で本を読んだり、絵を描いたりして過ごすことを好んだ。しかし夏休みに入る前のちょっとした出来事が、彼に変化をもたらした。  その日は家族で夕飯を食べに出かけた。  食べ終わってレストランから出ると、足下の石畳(いしだたみ)にクワガタのオスがひっくり返ってしきりにもがいていた。クワガタはなんとか起き上がろうとするのだが、何か足を引っ掛けるものがないとどうにも起き上がれないようだった。 「ノコギリクワガタだ。レストランの明かりに釣られて飛んできたか。しかしこんなでかいのが飛んでくるなんて珍しいな。」  そう言うなり、父はノコギリクワガタをつまみ上げた。 「得したなあ。持って帰ろう。」  父はレストランから紙コップを一つもらってきてクワガタを入れ、それを陽太に渡した。 「すまんが逃げないように見張っててくれ。」  こうして陽太は車の後席でノコギリクワガタの番をすることになった。一家は家へ帰る道すがら、大きい虫かごと腐葉土と昆虫ゼリーを買った。  家に帰る頃には、陽太はすっかりノコギリクワガタのオスの(とりこ)になっていた。彼はノコギリクワガタの大あごの描く曲線や頭胸腹の調和をとことん観察したが、ついにその造形に非の打ち所を見出せなかった。  ひとえに彼はこの硬質な生命体を美しいと思ったのである。陽太はこのような完全無欠の造形物が生きて動いていることを、神秘の象徴であると捉えて(はばか)らなかった。
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