深山の王

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 父がこのままミヤマクワガタの(つが)いを捕らえずに仕舞うことは、十分にあり得ることだと陽太は思った。そうなったとき、自分は到底納得しかねるとも思った。彼は彼我(ひが)の考えが真っ向から対立した場合に、自分は父と戦うことができるのかを真剣に考えた。そして、いざとなれば戦わねばならぬと結論付けた。  木々のさざめきが風に乗って波をつくり、火照(ほて)った陽太の頬を撫でていく。  やがて父は唐突に背伸びをして手を伸ばし、ミヤマクワガタのオスを手際よく木から()がして足元の虫かごに入れた。間髪を入れずにメスも虫かごに入れ、虫かごを陽太にしっかりと渡した。そしてコナラの根元に落ちている枝を拾い集め出した。 「虫かご、揺らしちゃだめだぞ。」 「大丈夫だよ。僕、車の中でもずっと持ってるよ。」  陽太は間近にミヤマクワガタのオスを見た。その姿の大きく、まるで化石が生きて動いている(さま)に彼は陶酔した。目を見張るのはその体色で、眺める角度によって滑らかに色が変わった。特に時折見せるその緑は、陽太が今までに見たこともない、くすんでいるのに底光りのする深淵の緑だった。 「ミヤマはね、まあ他のクワガタも、セミなんかもそうだけれども、幼虫で過ごす期間の方が成虫で過ごす期間よりもはるかに長いんだ。ミヤマは二年くらい土の中でばくばく土を食べて、寝て、成虫になる準備をするんだ。そしていざ成虫になったときに、彼らに与えられた時間は決して長くない。その限られた時間の中で、彼らの一番の目的は子孫を残すことなんだ。そのために命をかけて、毎日を精一杯生きるんだよ。」  父が枝を集めながら誰に言うともなしに話している。そのように話す父を陽太は初めて見た。しかし陽太は、この父の言葉はひと言も漏らさずに聞かねばならぬと思った。  虫かごからキュィィキュィィと音がする。ミヤマクワガタの夫婦が虫かごのプラスチックの側面をひたすらに引っ掻いているのだ。父は陽太の持つ虫かごを開けて、集めたコナラの枝をそっと一本一本置いていった。 「だから俺たちは、この夫婦の子どもをちゃんと育てて、絶対に立派な成虫にしてやらねばならん。」 「うん。ぜっったいに立派な成虫にするんだ!」  父子は固く目を合わせた。  陽太は両手で(かか)げるように虫かごを持っている。だからこめかみから流れ落ちる汗を拭うことができない。その頬を伝う涙を拭うこともできない。けれど今の彼に、そんなことはどうでもいいのだ。 了
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