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第1章 アブソリュート・ゼロ
雨は嫌いだ。余計なものばかり思い出させてくる。
あの日のような優しい雨が私に降り注ぐことなど、二度とありはしない。
*
今夜の雨は、ひときわ不快な生ぬるさを孕んでいる。
じわじわと余白を塗り潰すように、頭痛が勢いを増していく。
カウンター越しでは、店主が炭酸水らしきボトルをグラスに注いでいる。
不規則に割られた氷が詰まったグラスにカラフルな液体が流し込まれ、カランと澄んだ音が響く。細いグラスの中で回る氷がカウンターのダウンライトを反射して輝き、宝石のように見えた。いずれは溶けて消える、ただの水の癖に。
突然のキャンセルを告げるメッセージは、絵文字だらけで騒々しい。馴れ馴れしいそれを目にして、少々不快な気分になる。
適度な喧騒にまみれたダイニングバーの、普段より明らかに湿度の高い空気を吸い込みながら、私は端末の表示を切った。
会っても会わなくても構わない相手だ。どのみち、同じ相手と二度は会わない。とはいえ、こんな場所にまで足を運ばせておいて今頃になってから、という苛立ちが私の機嫌を逆撫でしていた。
雨の日の移動は嫌いだから、できれば避けたかった。それに、今日がいいと言い張ったのは向こうだ。それを思い出したら余計に苛々してくる。
店の奥の個室からは賑やかな声が頻繁に響いてくるが、テーブル席もカウンター席もさほど混雑してはいない。
店主と目が合い、私は曖昧に笑い返す。私がいわゆるドタキャンを食らわされたのだと勘づいている様子の店主は、特になにも口にせず、わずかに目を細めてから手元のグラスに視線を戻した。
中途半端な笑みを湛え、私はふと首を動かす。別になにをするつもりもなく、なんとなくぼうっと店内を眺めようと思っただけだ。
だが、高めの椅子から振り返って店内を見渡した瞬間、私はそのままの姿勢で動けなくなった。
「……あ」
思わず声が出た。濡れた傘を苛立たしげに傘立てに突っ込み、店内をぐるりと見渡していた男と、確かに目が合う。
彼の顔には見覚えがあった。見覚えどころの話では、なかった。
視線を引き剥がすように無理やり正面に向き直った私は、いささか乱暴な素振りでバッグを手に取る。そうすることで、出入り口に立つ人物と視線がかち合ったことを嘘にしてしまおうと思った。そんなことができるはずもないのに。
絶対に向こうも気づいただろうという謎の自信があった。努めて冷静を装う。ちらりと視線を上げた店主と目が合ったが、今度は笑い返す余裕がなかった。
足早に出入り口に向かう。
呆然と立ち尽くす男の隣を素通りし、私は店を出た。振り返らなかったし、足の速度も緩めなかった……だが。
走り寄ってくる足音がする。靴底がアスファルトを叩く音、雨水が撥ねる音。店を出て間もなく背後から聞こえてきたそれらの音に、私は歩む足を止めた。
諦めは早いほうだ。逃げきれるとは思えなかったし、そもそも逃げたところでどうなるものでもない。
追ってくるとは思っていなかった。
でも、思えば彼はそういう人だった。昔から。
足が完全に動きを止める。すると、背後の足音もほぼ同時に止まった。
細い雨が肌を濡らす。そのときになってから、傘を店に忘れてきたことに思い至った。雨脚はだいぶ弱まっていたけれど、傘がなくても構わないというほどではない。不快な水滴が滑る肌から体温が削げ落ちていく感覚があり、堪らず、私は眉をしかめた。
「戻ってきてたのか」
背後から声がかかる。
肩が震えた。声は変わらない。私たちが付き合っていた当時と同じ声だ。
すぐに返事をすることはできなかった。黙ったきりで振り返りもしない私に、相手は大いに苛立ったらしい。やや強引な素振りで腕を掴まれ、反射的に喉が鳴る。
大きな手のひらの感触は、古い記憶を――この男と過ごした日々を、私の脳裏に蘇らせるに十分だった。
「海帆(みほ)」
口調が強められた呼び声に、とうとう私は観念する。
ゆっくりと振り返った先では、およそ四年ぶりに顔を合わせることになった元恋人が、睨むように私を見つめていた。
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