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《2》薄っぺらの夜
「いいのか」
耳鳴りと細い雨が交ざり合う、その音にばかり気を取られて反応が遅れた。
え、と掠れた声を零した私に、相手は苛立ちを隠しもせず続ける。
「誰かと約束してたんじゃねえのか、さっき」
「……別に」
それはお互い様だろうと思いながら、震える喉から最低限の返事をひねり出す。
細い雨が降る中、大通りの歩道で傘も差さずに話をする私たちは、他人の目にはどう映っているのか。それを思うと憂鬱だ。
思わず腕を擦る。思いのほか冷えていた肌に驚いてそこに目を向けると、相手は私がこの立ち話を不快に思っていると受け取ったらしく、舌打ちをした。……露骨だ。過去のこの人とはまるで別人だと、他人事のように思う。
無言で傘を突き出され、私も黙ったきりでそれを受け取る。持っている癖にここまで差さずに走ってきたのかと、つい笑ってしまいそうになりながら。
噴き出しそうになったところを堪え、平静を装いつつ傘を開く。その様子をつまらなさそうに眺めていた彼が、低い声で続けた。
「男か。相手は」
「……だったらなに? 誰だっていいじゃない、関係ないでしょ」
関係ない。そのひと言が余計だったとすぐさま気づいた。
だからといって訂正する気にもなれない。今の彼には、そんな詳細は本当に関係がない……だが。
一度は放された腕が再び掴まれる。傘を持つ手とは逆の手を強く引かれ、私は反射的に震えた。
雑な扱いを受けることにはある程度慣れているが、あまりに暴力的なものはできれば避けたかった。痛いことをされるのは人並みに嫌いだ。
私の怯えに、彼はあっさりと思い至ったらしい。ふ、と鼻で笑う声が聞こえ、見上げた先で冷たい視線と私の揺れるそれがかち合う。
「誰でもいいなら別に俺でもいいよな」
「……は?」
「付き合えよ。ひと晩」
喧騒から外れた路地の真ん中、控えめな街灯は碌な視界を作らない。それでも、私が固まったさまは見て取れたのだろう。下衆な誘いを平然と口にした彼は、それ以降は無言で私の反応を待っている。
らしくない気がして、同時に、私が知る彼はもうどこにもいないのだと気づく。
当然だ。あれから四年、私だって過去の私とはなにもかもが違っている。彼だけに当時のままであることを期待するのは、エゴ以外の何物でもない。
彼には彼の四年があった。
私に傷つけられた日から、今に至るまでの月日が。
「いいよ。別に」
口をついた返事に、彼は目を見開いた。
そうしろと言われてそうすると答えたのに、傷ついたような顔をしている。断ってほしかったのかもしれないが、この男には、そもそもその手の駆け引き自体が似合わない。そういうところは昔と変わらなくて、息苦しくなる。
ふと、掴まれていた腕を強く引かれた。
相手の無遠慮な行動のせいで、私の足は大いにもつれる。危うく転びそうになったところをなんとか持ち直したものの、さすがに今度ばかりは眉をしかめざるを得なかった。
「っ、なにすんの、放して!」
「さっさと行くぞ」
相手の声にはわずかな抑揚も滲んでいない。
傷ついた気分になる。そんなこと言わないで、なんて……私に言えた台詞ではない。だとしても苦しかった。今感じた傷ごと目の前の男に叩きつけてやりたくなり、私はその激情を呑み込むために唇を薄く噛む。
「……本気なの?」
「いまさら。お前だって他の男と過ごす気だったんだろ、元々」
血の気が引いていく感覚があった。本当に、彼は私の知る彼ではなくなってしまった。
返事を口にしないまま、視線だけを地面に落とす。アスファルトを濡らす雨は、少しもやむ気配を見せなかった。
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