第1章 アブソリュート・ゼロ

3/4
前へ
/54ページ
次へ
   *  彼と私は、高校時代の同級生だ。  当時、父とふたりで暮らしていた私は、父に恋人ができたことで自分の居場所をすっかり見失っていた。不安定な精神状態に受験へのプレッシャーが重なり、息苦しくてならなくて……そんなときに出会ったのが彼だ。  女遊びが激しいと学校中で囁かれていた彼は、ある雨の夜、傘も差さずにふらふら歩いている私に声をかけてくれた。  ほとんど初対面の彼を相手に、私は、家庭の事情やら父への不信感やら――そういう鬱憤を余すところなく吐き出した。いつもだったら思い留まれただろうに。  彼は不快に思っている素振りなど露ほども見せず、黙って話を聞いてくれた。それどころか、雨に濡れた私の服を乾かしてまでくれた。  噂とは懸け離れた等身大の彼に、私は瞬く間に惹かれた。  それ以降、何度も彼の部屋に足を運んだ。数えきれないくらい抱き締め合ったし、キスもした。  女遊びの噂はやはり嘘で、彼の無口が祟ってしまったつまらない誤解でしかなくて……けれど想いを伝えることはできなかった。彼は、好きだとも愛しているとも私に言わなかった。相手の気持ちが不明瞭なまま自分の気持ちだけを伝えるなど、臆病者の私には到底無理だったのだ。  別々の大学に進学して、離ればなれになって、それでも忘れられなくて、当時の自分は嫌になるほど純粋だった気がする。  ――誰もが羨む大恋愛、だったか。  誰が最初に言い出したのだったか、今となっては思い出せない。大学時代、最後の年に偶然再会した私たちのことを、周囲の誰もが運命的だともてはやし、羨ましいと溜息をついた。  遠距離恋愛なんて、苦痛でもなんでもなかった。ずっと好きだった人と想いを通じ合わせられた喜びにどっぷり浸かり、私はひたすら幸せを噛み締めた。やがて、彼も私に合わせる形で都内に就職を決め、私たちには明るい未来しか広がっていなかったはずで……それなのに。  どこで歯車が狂ってしまったのかと嘆くことすら私にはできない。  私たちの未来を壊したのは、私自身だからだ。  あれから四年も経つのかと思う。その癖、まだたったの四年ぽっちかとも思う。  当時の詳細を思い返そうとしても、それが叶わない程度には記憶が風化している。少なくとも自分ではそう思っていた。そうでもないと、とてもやっていられなかったから。  安っぽいラブホテルは、今の私にはこの上なくお似合いだ。微妙に手狭なスペースと派手な色をした壁は、これから私たちに訪れる薄っぺらな夜を演出するにふさわしい。いっそ泣けてくるほど。  ピルは飲んでいないと伝えて、もっと他に言うべきことがあるだろうと思って、けれどもう、気持ちを言葉に置き換えること自体が億劫でならなかった。 『分かった。じゃあな』  別れを了承する、四年前の彼の声を思い出す。  温度のない声。ブツンと切れた通話。切れた、関係。 「……智(さとる)」  組み敷かれながら、呟くように名を呼んだ。  途端に、激しい後悔に襲われる。すでに遠くなりかけた記憶の中の、幸せだけでできあがっている綺麗な思い出まで、無遠慮に汚してしまった気にさせられる。  呼びかけた私の声に、返事はなかった。  寂しいと思う。そう思うこと自体が間違っている気もする。そうしたら、もうなにもかもがどうでも良くなった。 「もう挿れていいよ。早くきて」  冷めた声で言い放とうか、それとも媚びた声で囁いてやろうか――数秒の迷いの後、私は後者を選んだ。  鼻で笑う声がして、傷ついた気分とざまあみろという気分が同時に湧き起こる。失望するくらいならどうして誘ったのか、男という生き物は本当に理解できない。  ……こんなだったっけ、この人とするのって。  相手がどうしてその気になれているのか分からない。でも、結局のところは他の男たちも同じだった。しようと思えばできるのだろう。男は。  無言のセックスは、いつまで経っても味気ない。寒気がしてくるほどだ。けれど、私に言えたことではないとも思う。その味をますます薄くしたのは、多分、軽々しく下の名前で彼を呼んでしまった私だ。  君を傷つけた私が、またこうやって君に抱かれている。他人事みたいだ。夢だったらいいとは思わない、けれど早く終わればいいとは思う。  こんなのは、息苦しいだけ。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!

302人が本棚に入れています
本棚に追加