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瞼に乗せた腕がずり落ちる感覚を、無駄にリアルに感じ取る。
はっと意識が戻る。少しくらいならと目を瞑ったのがいけなかった。おそらくは数分程度、下手をすれば一瞬だろうとは思うものの、不覚を取ったようで気が滅入る。
夢と現実の狭間を揺れる独特の浮遊感が、まだ薄く残っている。
再び、腕を目の上に置く。緩い倦怠感が全身を包んでいて、生々しい情事のすべてが現実に起きたことなのだと私に思い知らせてくる。
……逃げてしまえば良かったのに、どうしてそうしなかったのか。誘いさえ受けなければ、こんな気分になど陥らずに済んだ。
嫌悪に近い後悔を巡らせていると、ふと腕になにかが触れた。
弾かれたように腕を動かし、目を開ける。そんなことをしでかす人間が、今のこの状況ではたったひとりしかいないと分かっていても、確認せずにはいられなかった。
「……海帆」
声は、最初に顔を突き合わせたときよりも掠れていた。
どこか緊張を孕んだ声音に、私は鼻で笑いそうになる。今頃そんなふうに呼ばれたところで虚しいだけだ。だいたい、私が呼んだときには返事もしなかった癖に。
「名前で呼ぶの、やめて」
なるべく毅然と伝えたかったのに、声は思った以上に震えてしまう。
虚しい。悲しい。つらい。息が苦しい。負の感情が血液に混ざり込み、それがぐるぐると全身を駆け巡る。すぐにもベッドから抜け出したくなって、その頃になってようやく、私は自分がなにも身に着けていないことに思い至った。
嫌気が差した。その癖、身体は少しも動かない。重くて息苦しくて、そのせいでますます不快感に拍車がかかっていく。
「海帆」
「やめてってば」
「海……」
「っ、いい加減にして!!」
しつこいの、らしくないよ。
そう言ってやろうと口を開きかけたものの、さすがに自重した。それを言われたら、彼はきっと傷つくだろう。私はこの男を闇雲に傷つけたいわけではない。
傷つけたいわけではないけれど、苛々はする。
手首に伸びてきた指を振り払う。苛々して、でもその苛立ちをこの人にぶつけるのは筋違いな気もして、途端にどうしたらいいのか分からなくなる。
視線を合わせてはいけないと思う。頑なに目を逸らし続け、そうやって拒絶の意志を伝えようとして……だが。
不意に視界が翳る。気づいたときには腕を押さえ込まれ、いつの間にか、彼は私に馬乗りになっていた。
高く振り上げられた腕が見え、反射的に固く目を瞑る。一拍置いた後、ぼすんと間の抜けた音が耳を揺らした。握り締められた彼の拳が、顔のすぐ横の枕に叩きつけられたのだと気づいたと同時、冷や汗がどっと噴き出してくる。
「……あ……」
潰れた蛙のような、みっともない声が零れた。耳の隣に落ちた拳は、ぎりぎりと音がしそうなほど固く握り締められている。
心臓を派手に軋ませながら硬直する私の、露骨に引きつった頬に、長い指が触れる。流れるように首筋へ動いたそれに、もしかしたらこのまま絞め殺されてしまうのではなどと、突拍子もない考えが脳裏を過ぎっていく。
「……どうしたって俺じゃ駄目なんだな」
抑揚のない声が聞こえ、喉をなぞる指がゆっくりと離れていく。
浅く乱れた私の呼吸は、なかなか元に戻らない。目を合わせたくないと、つい先刻まであれほど強く思っていたのに、真上から表情なく私を見下ろしている男の瞳から視線を逸らせなくなる。
「帰るよ」
顎の無精髭が、妙に目に焼きついて残る。
昔はほとんど見たことがない、疲れの滲んだ顔。四年という月日が生んだ、昔の彼と今の彼の、差分。
彼の顔があった位置から視線を動かせずにいる私を一瞥し、諦めたように微笑んだ彼は、ベッドを下りて静かにドアに向かっていく。
制止していいのか、したいのかどうかも分からない。かける言葉を見つけられない私が呆然としているうち、彼の姿はドアの向こう側に消えてしまった。
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