23人が本棚に入れています
本棚に追加
三二度目の誕生日を迎えたこの日、私はとある文学賞の受賞記念パーティーに参加していた。
「悪いね、突然呼び出しちゃって。独り身だと思われても、格好がつかないからさ」
見たこともないほど豪華絢爛なホテルのパーティールーム。目の前の、ブランド物のスーツをぱりっと着こなす元春の満面の笑顔を見た後、私はわずかに目線を落とした。
ちらと他の出席者に目をやる。どこを見ても誰を見ても、本来なら私なんかが交わることのないような上流階級のオーラを漂わせ、優雅に立食式のディナーを堪能していた。
私なんてマナーが気になって味どころではないのに。
「山岸先生。このたびは受賞おめでとうございます」
白髪に白いひげを生やした温厚そうな老紳士が近付いてきて、元春に賞賛の言葉をかけた。元春は居住まいを正し、「ありがとうございます」と普段より若干高い声で応える。
「こちらは……奥様ですかな? はじめまして。山岸先生にはいつも大変お世話になっております」
「あっ、いえ、こちらこそ。……あの、実はまだ結婚はしていないんですが」
「おっと、これは失礼」
頭を下げた老紳士の視線が、私の身体、というか衣装とぶつかった。彼はまるで品定めでもするような鋭い目つきを上下に走らせた後、わずかに眉間に皺を寄せた。
が、すぐに何事もなかったかのような笑顔を貼り付け、「今日は楽しんでいってください」と言ってくるりときびすを返した。
「沙羅。ちょっと言いにくいんだけどさ、」
さっきまで笑顔だった元春が困ったように眉を下げていた。
彼がこの顔をする時、私は心が重たくなる。「なに?」と小さく聞く。
「もうちょっとちゃんとした服無かったの?」
「ご、ごめんね。こんな感じの場所だとは思ってなくて……それに、今ある服じゃどれ着ても結局浮いちゃってたと思う」
「そっか。じゃあ今度買いに行こう。俺が全部揃えてあげるから」
「え? い、いいよ。そんなの申し訳ないし……」
「別に気にしないでいいよ。俺が恥ずかしいだけだから」
何でもないように放たれた言葉には、愛情はかけらも含まれていない。
元春は変わってしまった。
「まずは、本日の主役である山岸元春先生から、挨拶の言葉を頂戴したいと思います」
司会の人が言う。
私に背を向けて会場前方の壇上に向かおうとする元春に、おずおずと尋ねる。
「ね、ねぇ。今日って何の日か、知ってる?」
「何って、受賞記念パーティーだよ。後で構ってあげるから、大人しくして待ってろよ」
鬱陶しそうに言って元春は歩き出した。
不意に先日プロポーズされた時のことが思い出された。
なんの演出も「愛してる」の言葉もなく、大きなダイヤの付いた指輪を自信満々で取り出した元春の顔は、俺と一緒に居られて幸せだろう、と言っているように見えた。
幸せでないとは思わない。元春のような成功者が、何のとりえもない、三十路過ぎの行き遅れ女を貰ってくれるというのだから、むしろ感謝をするべきなのだろう。
たとえ、彼が欲しているのが彼を愛する「女」ではなく、ただの「家政婦」だったとしても。
悩んだ末、私はプロポーズを受け入れた。
私なんかが手の届かない壇上で、大勢の人に囲まれて、誇らしそうに笑う顔を見て思う。
元春は変わってしまった。
だけど、変わったのはきっと彼だけじゃない。
彼が一番好きだと言ってくれた私は、時代の流れに取り残され、思い出の彼方に消えてしまった。
手の中の小さい方のダイヤをぎゅっと握りしめる。目を閉じて、まぶたの裏に、お金が無くても心から幸せだったあの頃を描こうとする私を、掌のひんやりとした感触が現実に引き戻した。
会場中が新進気鋭の作家を万雷の拍手で称える中、私は一人、涙を袖で拭った。
ここにはもう、「アイ」は無い。
最初のコメントを投稿しよう!