負けられない戦いは突然に

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人生には絶対負けられない戦いを挑まれる、もしくは挑まなければならない時が必ずやってくる。 それは10年後かもしれない。いや、もっと先かもしれない。はたまた5年後、1年後かもしれない。もしかしたら、次の瞬間にやってくるかもしれない。 そう、戦いというものは突然始まるものなのだ。 俺は今この瞬間、負けられない戦いの火蓋が切られたところだ。 それは大学からの帰り道。平和な電車の中でのことだった。 今日は3限終わりの日なので、電車内は割りと空いていた。俺は座席の一番左端に座り、今週中に読まなければならない文献に目を通していた。 読んでる途中にふと違和感を覚え、文献から目を離す。 …気のせいか。 俺は再び文献に目を戻した。 しかし、読み進めていくほどに違和感はよりはっきりしたものに変わっていった。お腹の痛みに変わっていった。 「うっ!」 次の瞬間、激しい痛みがお腹を襲う。 この感覚は間違いない。下痢だ。 一体何故だ?何か悪いものでも食べただろうか。 俺は今日の昼食を思い出す。今日はコンビニで、えっと…何買ったっけ…? 腹痛によって妨害される記憶を必死に呼び戻した。 「っ!」 瞬間、俺は括約筋を閉める。 危なかった。危機一髪だった…。 いや、この際原因など考えても仕方がない。過ぎたことをいくら考えても無駄である。大事なのは過去ではなく、未来なのだから。 「ふ~」 俺は一度大きく息を吐いた。 『◯×駅~。◯×駅~。』 よし、あと少しだな。◯×駅で一度降りてトイレに…。 そう思いながら俺は静かに扉が開くその時を待った。 あと少し、あと少し…。よし、ホームに入った。あと少し、あと…ん?あれ? 電車はゆっくりと止まり、扉が開けられる。 ついさっきまで、待ち望んでいた状況なのにも関わらず、俺は立ち上がらなかった。痛みで立ち上がれなかったのではない。立ち上がる必要がなかったのだ。 痛くない!! そう、つい数十秒前まで俺を苦しめていた腹痛は去ったのだ。 フッ。この勝負は俺の勝ちのようだな。腹痛の野郎、俺には敵わないと逃げ出したらしい。 俺は扉が閉まるのを余裕の笑みを浮かべながら見ていた。 腹痛…貴様、卑怯だぞ…。 俺は痛むお腹に手を当て、括約筋を最大限に閉めながらヒョコヒョコと歩いていた。 再び腹痛と対峙したのは駅の改札を出た直後のことだった。 「うぅ…っ!」 さっきよりも痛みがひどい。野郎、援軍を呼んできやがったな…。しかも、改札を出た直後を狙うとは…。駅のトイレを通り過ぎてしまったではないか。 駅から家までは徒歩10分弱。途中にコンビニが数軒あるが、どこも防犯上貸し出しを行っていない。 よし、良いだろう。やってやる。お前との勝負とことんやってやるよ!今度は逃げるんじゃねぇぞ。 そう意気込んで、約5分。更なる腹痛に俺は耐えていた。 くそっ、普段ならもう少しで家なのに…。腹痛のせいで歩くスピードがゆっくりになってやがる。 そんな俺の前で無情にも信号が赤に変わる。 周りの通行人が俺を見て笑っている。そりゃあそうだろう。今の俺は誰がどう見てもう◯こを我慢している可哀想な奴だ。 それがどうした。これは俺と腹痛との、いや、俺自身との戦いなんだ。不恰好でもいい。可哀想な奴と思われてもいい。最後に勝てばそれでいいんだ。泥臭くてもいい。 これは、負けられない戦いなんだ!!!! 万が一負けてしまったら、失うものは人間としての尊厳だ。 いや、万が一でも負けることを考えてはダメだな。勝つんだ。この勝負必ず勝つんだ。勝つことだけを考えるんだ。 信号が青になるのと同時に俺は歩きだした。 この信号を越えればマンションが見えてくる。このマンションの4階。それが俺のゴールだ。 マンションのエレベーターホールへと。歩を進める。1歩ずつ、1歩ずつ。遅くても確実に前に進む。 「クソがっ…。」 エレベーターはついさっき、上にいってしまったらしい。上へ、上へと上がっていく。ついには最上階の12階まで上がっていった。 「そうかよ…。おもしれぇ…。」 俺はエレベーターを見限り、階段へと歩を進めた。 4階。今の俺にとっては遠い場所だ。しかし、いくら遠く感じても進むことをやめなければ、いつかは辿り着ける。 「はぁ…はぁ…。」 腹痛も最後の追い討ちをかけてきた。 「負けられねぇ…。負けられねぇんだよ!」 顔を上げると、そこには『4階』と書かれていた。 あと少しだ。あと少し…。 そう自分に言い聞かせながら、廊下を進む。 「うぅ…ああっ!!」 俺は咄嗟に肛門を手で押さえた。 危ない…。紙一重だ。 そうだ、勝ちを確信した瞬間が一番危ないんだ。 スポーツでもそうだ。あと1点で勝てる。しかし、その1点が取れずに逆転負けする事なんてザラにある。 ここだ。ここが一番の頑張りどころだ。頑張れ、頑張れ、俺。部活の試合も受験も今まで乗り越えてこれたじゃないか。そうだ。俺はここも乗り越えられる。 そうして俺は鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込む。よしよしよし!!ドアノブを回して家に入る。あとは目と鼻の先にあるトイレに駆け込むだけだ。 「うおぉぉぉぉぉ!!!!!!!!」 結果、敗北ー。
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