天使の心臓

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 医療用クローン製造基本法(抄)  第1条 この法律は、生体移植治療用ヒトクローン(以下、「医療用クローン」という)の基本的理念を定義するとともに、適正な使用を促すことを目的とする。  第2条 医療用クローンとは、疾病・負傷等により身体各部を欠損した際に、拒絶反応等の危険度の少ない移植を行う為に製造される医療用生体装置である。  第8条 医療用クローンは、全てその移植治療を受ける者本人あるいは3親等以内の直系血族の遺伝子等から作られなければならない。  第16条 医療用クローン製造に際し、次に上げる理由以外でその遺伝子等に手を加えてはならない。   1.遺伝子異常による疾病治療が目的である場合。   2.第17条『ヒトとの区別』が目的である場合。  第17条 医療用クローンは次に挙げる条件を満たしていなければならない。   1.検査を用いずに、外観のみでそれと分かる特徴を持っていること。   2.前項にあげた部位以外は、全てヒトと同じ体組織を持っていること。  第38条 第17条第1項を満たす為の改造は、製造前から製造後14日以内にこれを行うこと。  第87条 医療用クローンは、その移植治療を受ける者の目の届かぬところで製造・保全しなければならない。  (21XX年改正)   命を永らえる事への執着と、命を弄ぶ事への罪悪感にうまく折り合いをつける形で、人類はこの法を作った。  『医療用クローン製造基本法』――通称クローン法。  クローン法で助けられるヒトの命の数と、クローン法で殺されるヒトクローンの命の数は比例する。  でも、その重みは決して比されることはない。  この国際法が施行されてすぐ。  クローン法第17条で義務付けられた、ヒトとクローンを見分けるための改造は、それまでは大抵、自然ではありえない髪の色(緑や紫、青など)や、焼印・刺青などが主流だった。  だが、世界的に有名なアーティストが作らせた自身の娘のクローンを境に、その常識は大きく変わる。  そのアーティストは、自分の娘・ローラのクローン背中に、真っ白な翼を持たせたのだ。そう、まるで、天使のような。  あどけない小さなローラと、ローラそっくりな、天使の翼を持ったクローンの女の子。  やわらかく波打った金髪を散らばらせ、無垢な寝息をたてる2人……いや、1人と1体の映像は、アーティスト本人の人気も手伝い、その後世界中に天使を増やすことになる。  因みにそのアーティストは、ローラとそのクローン……天使を一緒に育てるという愚を犯した。  翼のないほうの天使だったローラは、悲惨な事故にあい、天使から身体・内臓など各部の移植治療を受けたが、死んだ。  ……事故死ではない。  小さな頃から仲良しだった、翼を持った自分の片割れの命と引き換えに、自分が助かったことを知っての自殺だった。  それももう何年も前の話で、その後クローンと患者を離しておくことが法律で義務付けられたが、宗教家からのブーイングも何のその、天使そのものを禁止させるまでには至らなかった。  これは、僕が子供の頃の話。  そんな一連の歴史や悲話を、まだ知らなかった頃の話。  病弱で、生まれた頃から病院暮らしの僕には、1日だけの友達がいた。  その友達は、背中に真っ白な翼を持っていた。  空を飛ぶことのできない翼だったけれど。  最初は、窓に自分が映っているのだと思った。  だけど、窓ガラスの中のぼくはぼくらの間にあった窓を、難なく開けた。  ぼくにそっくりの男の子は、後ろを気にしながら窓枠に足をかけて乗り越えようとした。 「何してるの? そこから逃げたいの?」  ぼくが声をかけて初めて、窓の外にぼくがいたことに気付いたようで、まるでお化けでも見たみたいに目を見開いて、ひっ、と短く悲鳴をあげた。  その男の子はついさっきまで泣いていたみたいに、目を赤くして、頬には涙をこすった痕があった。 「きみは誰? どうしてそんなにぼくと似ているの」  慌てて窓を閉めようとした男の子に、そうはさせまいとぼくは窓枠に手をついて聞いた。  薄暗い部屋の中で、男の子は、おろおろと部屋中に視線をさまよわせる。  男の子がぼくに背中を向けたその一瞬に、ぼくはとんでもないものを見つけてしまった。 「きみ、それ、翼だよね? もしかして……天使なの!?」  ママが持ってきてくれた絵本の中に、翼の生えた男の子の天使が出てくる話があった。  絵本の中の天使は、楽しいことしか知らないような笑顔で、ふうわりと楽しそうに宙を飛んでいた。  部屋の中の男の子は、『天使』という言葉にびくっと肩をふるわせて、背中を隠すようにぼくの方に向き直った。  その顔は、絵本の中の天使とは違って、悲しそうに見えた。  だけど、それと向き合うぼくの顔も、負けずに悲しそうだったと思う。 「天使……もうすぐぼくが死ぬから、迎えに来てくれたの?」  天使の男の子は、弾かれたように顔をあげた。  ぼくは生まれたときから、お医者さんでも治せない難しい心臓の病気にかかっていた。  ついさっき。お医者さんが診察室に、パパとママとぼくの3人を呼んだ。  いつものように大きな機械に入ったりして診察を受けたあとに、お医者さんはこう言った。  『そろそろだと思います』。  それを聞いたパパとママは、顔を見合わせ、先にぼくを病室に返した。  病室の前まで看護士さんが送ってくれたけど、ぼくはそのまま病室に入らずに、こっそり病棟を抜け出した。  はだしで草の上を歩きながら、ああとうとうぼくは死ぬのかなあと、ぼんやり考えた。  『死ぬ』ってことがどういうことかは、病院暮らしのぼくにはよくわかってた。  昨日までそこにいた子が、今日はいない。  消えちゃうのだ。ベッドの上からも、病棟の中からも、世界のどこにも、まるでそんな子初めからいなかったみたいに。  今まで何人か、そんなふうに消えてしまった子たちがいた。今度はとうとう、ぼくの番らしい。  そう考えたら、涙が止まらなくて、偶然たどり着いた白い建物(別の病棟だろうか)の窓の前に立ち止まった。  お医者さんの言う『そろそろ』というのはきっと、『そろそろ限界でしょう』ってことなのだ。  だからぼくは、ぼくが立ち止まった場所で出会った、ぼくとそっくりな姿のこの天使が、ぼくを迎えに来てくれたんだと思ったのだ。  天使の男の子は、ぼくの顔をまじまじと見て、たった数秒で、数え切れないくらいたくさんの表情を見せた。  怒った顔、嬉しい顔、ちょっと意地悪な顔、悲しい顔、悔しい顔、迷う顔、……。  そして最後に、ぐっ、と唇を真一文字に引き結んだ。これはきっと、『決めた顔』だ。  ぼくも、何かを決めた時は『決めた顔』をする(苦い薬を飲むときとか)。  天使の男の子はぶんぶん、とかぶりを振って、『迎えに来てくれたの?』というぼくの言葉を否定した。  そして、『決めた顔』のままで、その唇を開く。 「きみは死なないよ。ぼくが……助けるから」 「え?」  ぼくと、そして自分自身に言い聞かせるように、天使の男の子はゆっくりと言った。 「ぼくが、助けるから、きみは、死なない」 「お医者さんでも治せない病気を治せるの? 天使だから?」 「……うん。ぼくならきみの病気を治せる。……天使だから」  その時のぼくの顔は、今まで浮かべたどの顔よりも『嬉しい顔』だったと思う。  だってぼくは、消えたくなんてなかったから。  もっと、生きていたかったから。 「ほ、ホントに!? 嬉しい……ありがと! ありがと!」  『ありがと!』を言い続けるぼくの『嬉しい顔』を鏡で映したみたいに、天使の男の子も『嬉しい顔』をしてくれた。  ぼくが嬉しいから、一緒に喜んでくれてるんだと、ぼくはその時そう思ってた。  ……僕は無邪気で、そして残酷だった。  僕は死ななかった。  あの日医者の言った『そろそろ』は、『そろそろ手術をしていい頃でしょう』という意味の『そろそろ』だったのだ。  そして僕は心臓移植手術を受け、術後も順調に回復し、手術から2ヶ月で退院の日を迎えた。  クローン法とは別の臓器移植法で定められている通り、患者にドナーの素性が明かされることはない。僕にドナーの話をしないのは、それが理由だと思っていた。  僕に心臓をくれたのは、若くして脳死判定をうけた子供なのだと信じて疑わなかった。  そして、手術が成功したのはあの天使の少年のおかげだと、信じて疑わなかった。  退院の前日、僕は天使にお礼を言うために、もう一度真っ白い病棟へ行ったが、天使の少年には会えなかった。  ぴたりと閉ざされた窓も、外側からでは開けることはできない。薄暗い部屋の中を覗こうと目をすがめ、窓枠に手をついたとき、その手に触れた何かに気付いた。  窓と窓枠の隙間に、2つ折にした紙と、白い羽根がはさまっていたのだ。  それは、あの天使の少年が僕に宛てた、たった3行の短い手紙だった。 『ぼくを覚えていてください。 きみはローラのようにはならないで。 どうか幸せに。』  幼い筆跡のその手紙を見て、僕はわけも分からずに悲しくなって涙を落とした。  本当は……僕はうすうす感付いていたのかもしれない。  僕の新しい心臓は、天使の少年に与えられたものだったという事を。  彼は、僕の先天性心疾患を知った両親が作らせた、医療用クローンだった。  だが、天使の少年がクローンだったからと言って、死ぬ事、消えてしまう事が恐くないわけがない。  僕と彼の違いは、心臓と、あの翼の有無だけだったのだから。  僕に会ったあの時。彼はきっと、窓を開けて逃げてしまいたかったのだろう。それこそ、使えるものなら背中の翼で大空をどこまででも。  だが、彼は僕と……いや、自分と出会ってしまった。  死ぬこと、消えてしまうことを恐れる、小さな子供。僕らは同じ存在だった。  僕は彼で、彼は僕だったのだ。クローンとオリジナルという関係を抜きにしても。  彼は、逃げるのをやめた。  天使なんかじゃなかったのに、僕のために彼は天使になった。  僕は、僕の姿をした心優しい天使からの最期の手紙と、彼の遺した白い羽根を抱きしめて、泣き続けた。  僕は、ローラは死ぬべきではなかったのだと思う。  天使の事を想うならば、何としてでも生きるべきだった。  天使はきっと、ローラの幸せを願って、自分の半身に祝福を与えた。  天使は死なない。天使は消えない。だってその天使は、自分自身なのだから。  自分が生きている限り、天使も傍に生きている。  自分が幸せなら、天使もきっと幸せだ。  それは、医療用クローンを使った者のエゴだとか、罪悪感から逃げているだけなのかもしれないけれど。  僕は天使の心臓で、今も生きながらえている。  引き出しの奥には、もう1人の僕からの手紙と、翼の欠片が大切にしまってある。  それは僕の友達が、確かにこの世界に存在した証。  そして僕に課せられた、幸せに生きる義務と権利の証だ。
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