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27歳 結局は全然、すれ違っている
「子どもが生まれたら」
向かいに座る恋人の言葉に私は顔を上げた。
チェーン店じゃない、お酒の種類がたくさんあって、魚料理をメインに出す居酒屋の薄暗い店内。
橙色の照明に照らされた恋人は幸福そうで、本当に、心の底から湧き上がる幸福を隠すことなく表情に映していて、その顔をまっすぐ私に向けていた。
「薫、って名前にするって決めてるんだ」
男でも女でもいける名前だろ。ものすごい秘密をこっそり打ち明けるかのように言い、有名らしいが私にはわからないなんとかっていう日本酒に口を付けた。
その恋人の一連の言葉と動きを眺めながら、私も確かに幸福だった。
この人は、私との未来を見据えている。私との結婚を、私との子どもを、幸せな家庭を、考えている。だからこんなに幸せそうに、こんな話をしてくれるんだ。疑う気持ちは微塵もなかった。
これを恋というのかもしれない。愛というのかもしれない。
とんでもなく陳腐な考えが、全然、陳腐さの欠片もないままに私の体中を満たして、まるで真理みたいな顔をして、私を私じゃなくしていった。
だけどそんなことには全く気付かなくて、いつの間にか私も、向かいに座る恋人と同じ顔をして笑っていた。
帰り道、恋人は当たり前のように私の手を握った。今年一番の寒波だと朝のニュースが言っていたのを思い出す。だけど全然、嘘みたいに寒くなかった。
触れているのは右手のひらだけなのに、そこからの熱が体全部に回って、丁度良く温かい気がした。
ほんの数分前の、居酒屋の代金を支払う恋人の横顔を思い出す。
いくらだった?と訊いた。いいよいいよ、恋人はそう言って笑って、握った手を自分のコートのポケットにつっこんだ。頭の中で勝手な計算をして、だから今日は四千円を恋人の財布に忍ばせようと考えた。
きっと恋人は翌日、私と別れた後になってそれに気付いて、よくできた彼女だと誇らしく思うのだ。私の事を愛おしいと思うのだ。
☆☆☆
二つ年上の恋人は実家住まいで、だからデートの後はいつも、私が一人暮らしをしているアパートの部屋にやって来る。そのまま泊まって、私の部屋から仕事に向かう。
実家暮らしである事を、恋人は恥じていた。
いい年して、家族と暮らしているのは格好が悪い、と。母親の作る朝食にうんざりするんだと、私が作った目玉焼きとウインナと食パンだけの朝食を食べながら言った。
「感謝しなくちゃ、だってお母さんは」
私が言いかけると、恋人は小さく笑った。
私の言葉への返事だったのか、テレビを見て笑っただけだっのかわからなかったけど、私はそれ以上言うのをやめて、目玉焼きを食べる恋人の姿を見ていた。
美味しい?と訊いたら、「目玉焼きだしね」と言われた。冗談のつもりだったのか、言った後、恋人は顔をこちらに向けて、いたずらをした子どものようにキヒヒと笑った。
私も真似をして笑った。その顔が、カラーボックスの上の鏡にちらりと映る。知らない誰かが映った気がして、一瞬、心臓が大きく脈打った。だけどすぐにそれが自分の顔だと理解する。理解した後も、心臓はドキドキしたままだった。
それを隠すように、わざと明るい声で言う。
「早く食べなきゃ。電車遅れるよ」
恋人は甘えた声で「はーい」と言い、食パンに勢いよく齧りつく。頬をパンパンに膨らませてひとりで笑っている。そしてそのままテレビに顔を向け、当たり前のように食事の手が止まる。
私が言ったとおり、乗るつもりだった電車に恋人は乗り遅れた。だから同じく私も乗り遅れた。
いつも乗る電車は元々、職場に早く着く電車なんだから二十分遅れたくらいどうってことない。丁度いいくらいじゃないか。頭の中で繰り返し、自分で自分に必死で言い訳をする。焦る気持ちが、しかし恋人に右手を握られると途端にどうでもいい気がしてしまう。
「ほら、走ろう」
自分がのんびりしていた事などなかったかのように言い、恋人は私の手を引いて走り出す。恋人の髪に付いた整髪料から甘ったるい匂いがする。
それがあまり好きじゃない種類の匂いだということ、なぜか私は、すっかり忘れてしまっている。
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